世界は複雑だ。複雑になってしまった。ある人の正義は、別の誰かの正義とぶつかり合ってしまう。お互いが、自分が正しいことを主張しようとして、相手の正しさを攻撃してしまう。声の大きい人が勝ってしまう。そうやって自分にしがみついて、交わらない。もっと別のあり方はないのだろうか。執着でも抵抗でもなく、無視も孤立もせず、隣の誰かと生きていく、そんなあり方は。先日もそう思った。
東京・六本木のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで吉野英理香の個展「NEROLI」が開催されている。私が彼女の写真を初めて見たのは、4年前の個展「Digitalis」だったと思う。次いで作品集『ラジオのように』(OSIRIS)を見た。初めの興味は、ある年代の表現を連想させるような、被写体との生々しい関係が彼女の写真に表れていることだった。だけど、それだけでは片づけられない何かがあった。その何かが、本展ではゆっくりと膨らんでいるようだった。
公園の遊具か何かだろうか、紫色のプラスチックの塊に、周囲の緑や光が鈍く反射している。鳥は真っ白な羽をこぼれるように生やしているが、顔も水面も真っ暗で闇のようだ。放置されたのか、古びたボートは少し浸水していて、なぜか船底から植物が長く伸びている。池の底なのか、泥がレイヤー状に浸食されていて、鄙びたような緑色になって沈んでいる。
そのまま化石にでもなってしまうのか。たったひとつの名前しか与えないような強い解釈をせず、複雑さを解決しないまま、そういうものだと受け止めて、多様なままに残しておいて、深く深く、沈んでいく。化石のように、骨も葉っぱもゴミも、姿も形も何もかもそのままで、封じ込められてしまって、遠い時間の果て、かつて存在していたものたちが、大きな塊になって、じわじわと、活力を帯びていく。動物も、植物も、金属も、鉱石も、人工物も、すべてはいつか、なつかしくなっていく。
ただこの調和のあり方は、やさしく包み込むものではなく、平たく固めるようにして、押しなべていくものだ。母性と父性の、あわいのようなもの。繊細ではあるが、少なからず力んでもいる。複雑であることを知ってしまった人間の、そうせざるを得ない営為。マーブルな結晶。淀みのような静寂には、彼女のもどかしさが滲んでいるように思う。だけど、だから美しいのだ。この、こわばった沈黙は何だろうか。人間の野性だろうか。
芸術作品のなかで最も可能性に富んでいる要素はしばしば沈黙である。
スーザン・ソンタグ『反解釈』(ちくま学芸文庫)
COVER PHOTO / 吉野英理香「Untitled」、2013年、C-print、イメージ・サイズ: 20 x 30cm、ペーパー・サイズ: 27.9 x 35.6 cm © Erika Yoshino / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film