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Column

2016.07.04

やさしく なじんだ 記憶

文/岡澤 浩太郎

『Cy Twombly Fotografisch werk 1951-2010』(Bozarbooks / Ludion)という、ミュンヘンで行われた彼の写真展の図録を見て、いたく感動し、次に引っ越したら自分の部屋はこんな感じにしよう、と思ってはみたものの、ことごとく失敗したことがある。DIC川村記念美術館で開催されている展覧会『サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズム―』を見て、そんなことを思い出した。

「室内」1980年 カラードライプリント、厚紙 43.1x27.9cm 個人蔵

時に「子どもの落書きのよう」とも形容される抽象絵画や彫刻作品で世界的に知られるサイ・トゥオンブリー。日本でもファンは多く、読者のなかにも原美術館で昨年開催された個展に足を運んだ人も少なくないのではないだろうか。DIC川村記念美術館の本展では、彼がキャリア初期から制作していた写真作品を中心にしながら、それらに表れている作家の美意識や美的感覚が、絵画や彫刻やドローイングにどのように展開していったかを提示する構成になっている。

「ミラマーレ、海辺」2005年 カラードライプリント、厚紙 43.1x27.9cm 個人蔵
「スペルロンガ IV」2010 年 カラードライプリント、厚紙 43.1x27.9cm 個人蔵
「未完成の絵」2006 年 カラードライプリント、厚紙 43.1x27.9cm 個人蔵

それにしても、写真に写されているのは、どれも日常の風景ばかりだ。テーブルの上にパンが置いてある。ベッドのシーツがたわんでいる。出かけた先で見た彫像。遺跡や、その傍らで生える植物。海、森。ただそれだけだ。それなのに、美しい。なぜだろう。展示を見ながら気がついた。この人はきっと、自分の身の回りを、美しいもので飾り立てているのではない。そうではなく、たとえ既製品だったとしても、彼がそれを美しいと思った、その心が、写真に留められているのだ。

この美しさは日々の生活から生まれている。テーブルの上に白布を敷き、食器を並べる。庭で野菜を収穫し、水で洗い、土を落として、切りそろえ、煮たり焼いたりして、あるいは生のまま、皿の上に盛る。服を洗い、干して、畳んで、また袖を通し、ボタンを留める。そういう何気ない普段の生活を、義務のように繰り返すのではなく、ひとつひとつを愛おしいと思いながら積み重ねることを通して、たどりつける美があるのではないだろうか。

私が牛を撫でると、牛は通りを横切り、歩道を歩いて去っていった。そのとき私の掌に残った匂いを私はいまも覚えている。鼻を刺激する優しくなつかしい匂い。生活と幸福の匂いだ。


アンドレイ・タルコフスキー『タルコフスキー日記 殉教録』(キネマ旬報社/鴻英良・佐々洋子訳)

そうした美しさを発見するとき、人は自分と事物の間にあるものを、指で撫でるようにして、なじませている。時間も、空間も、ものごとの境界も、少しぼんやりして、やさしくなる。そんな感覚は、ピントが甘くなった彼の写真や、「落書きのように」くしゃくしゃっとした絵画の線に、ちゃんと表れている。私は日々の幸せから生まれる美しさを、信じたいと思う。

「チューリップ」1985年 カラードライプリント、厚紙 43.1x27.9cm 個人蔵

COVER PHOTOS 「キャベツ」1998年 カラードライプリント、厚紙
43.1x27.9cm 個人蔵、all images ©Nicola Del Roscio Foundation,
Courtesy Nicola Del Roscio Archives

岡澤 浩太郎

編集者

1977年生まれ、編集者。『スタジオ・ボイス』編集部などを経て2009年よりフリー。2018年、一人出版社「八燿堂」開始。19年、東京から長野に移住。興味は、藝術の起源、森との生活。文化的・環境的・地域経済的に持続可能な出版活動を目指している。
https://www.mahora-book.com/