脳みその隙間
ぜんぶまで。
うぶ毛の一本、爪の一枚
ぜんぶまで。
のりで
ごはんを巻くが
占めている。
自ら選んでこうしているのだ。
美味と思うからこうしているのだ。
粥をただ口に運ばれている頃とは
まったく違うのだ。
ダウンロードが完了しつつある。
これはお祝いだ。
自分を自分が手に入れた、お祝いなのだ。
選評/穂村 弘
自分の味
自分という存在の獲得についての詩だと思う。「粥をただ口に運ばれている頃」の幼い<私>は、自分以前の何かだった。それは仕方がない。だって、世界にどんなものがあるのかをまだ知らず、手も足も出せなかったのだから。これは嫌だ、好きじゃない、と思っても、赤ちゃんにできるのはただ泣くことだけだ。でも、今は違う。この世界から「自ら選んで」きたものたちの「ダウンロードが完了しつつある」のだ。その集合体としての自分。「自分を自分が手に入れた」と思えることがとても嬉しい。
この世界から「自ら選んで」きたものとは何か。例えば、それは「のりでごはんを巻く」だ。非常に具体的かつピンポイントなところが面白い。既存ののり巻きともおにぎりともお鮨の軍艦巻きとも違う。結果的にそれらに近づいたり、たまたまそれらの形を取ることがあったとしても、あくまでも本質は「のりでごはんを巻く」なのである。今、<私>はのりでごはんを巻いている。「自ら選んでこうしているのだ。美味と思うからこうしているのだ」。口に入れたら、きっと本当の自分の味がするのだろう。