夜に通りかかったその桜の木は
たしかにそこで起きていた
何を観察しているわけでもなく
何を読んでいるわけでもなく
今にも眠り込んでしまいそうな顔をして
桜の木はたしかにそこで起きていた
日中、艶のない華やかさを纏う桜の木の
その耳に
わたしたちの声が届いているんだかどうかもわからなかった
わたしたちの視線も届いているんだかどうかもわからなかったが
桜の木の寝顔を眺めていたということか
夜の桜の木は
日中には絶対にわたしたちには見せないような表情をしている
日中、透き通る鮮やかさを纏う桜の木の
その顔が
どういった表情をしているんだかどうかもわからなかった
目を開けているんだかどうかもわからなかったが
そもそも顔を見ようともしていなかったのか
夜の桜の木は
そばへ寄らなくたって、目が開いているってすぐわかる
桜にも、この季節にぼんやりと考えなければいけないことがあって
桜にも、この季節にぼんやり考えることができる時間が必要
春の寒さが厳しいほど、ぼんやり考えるにはちょうどいい
「今が春だから、という理由で
春の夜は冬よりも寒いなって思うのですが」
そう問いかけるわたしの声は
一人考えている桜の木の耳に届いてはいると思う
選評/大崎清夏
お花見の季節。語り手は、日中に見たときには気づかなかった桜の「顔」、その表情に、ライトアップされ闇に浮かびあがる夜桜を見て初めて気づく。
「たしかにそこで起きていた」という一行に、はっとする。「起きていた」とわかるのは、何かをじっと考えている桜の視線に触れたからだ。夜の桜は「そばへ寄らなくたって、目が開いているってすぐわかる」。ほんとにその通りだと思う。そうか、昼の桜をつい覗きこんでしまうのは「起きてますか?」と言いたくなるからなのかと、昼と夜でたしかに違う自分と桜との距離感が鮮やかに思いだされた。
ぼんやりと、それでも何かをぎゅっと思考しようとしている夜の桜の逡巡が、肌寒い春の夜をひとり歩く語り手の逡巡に重なる。詩のぜんたいを暗喩として成立させる技術も巧みだ。
桜には耳もある。詩の終盤、鉤括弧にいれられた桜への問いかけには、絶妙なやさしさと親しみがこもっている。すこし舌足らずに感じるような言葉の繰り返しのなかにも、ひとつの思考にまとまらないまま考えこむ桜/わたしがいる。それはさみしいそぞろ歩きだけれど、桜というひとときの隣人を得て、なぜか深く、しんしんと心地いい。