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今月の詩

2022.05.02

走り梅雨

詩/八尋由紀

真夜中の嵐の音に
身体の内側に
毛が生えてくるのです
地上の灯りは昇り
薄ら明るい空は
蠢きを落としてきます
落雷と豪雨の鼓動に
産毛は逆だち
震えあがります
だいじょうぶです、
だいじょうぶです、
と、

去年、切りすぎた紫陽花が
蕾をつけようと
雨粒をあつめても
新芽ばかりを
増やし続けています
切り方をまちがえた私が
悪いのに、です
昨日、花のように彩やかな色の
シーツを何枚も選んだのは
嵐のための前夜祭でした

小さな一級河川は
氾濫水位を超え
役割を放棄します
サイレンがなっています
逆立つ産毛は
濡れてゆきます
距離感をなくした耳は
ふさがれてゆきます
遠く、遠く、
だいじょうぶです、
と、
湿った産毛は
瞼の裏側で
倒れてゆきました

六月の朝は性急に
鈍い曇天を報せにきます
水分を含んだ庭は
いい香りがします、から
芽吹いたばかりの新芽は
眼の奥に鮮やかです、から
すべて、きっと、
だいじょうぶなのです
私は、ただ、
ただ広くいたい、
だけなのです

朝の人は言いました

週末には梅雨入りし
しとしと雨の日が
しばらく続くでしょう

内側の産毛が
抜け落ちた瞬間でした

 

 

選評/大崎清夏

 「だいじょうぶです、」と語り手に声をかけるのは、語り手自身の身体の内側に生えた「産毛」だという。その産毛が、逆立ったり、湿ったりしながら「私」を励ます。あまりだいじょうぶそうに見えないものが言う「だいじょうぶです、」に、それでも縋る心細さを、詩は吐露する。
 「走り梅雨」(という言葉を私は知らなかったのだけれど)は梅雨の前触れで、だから紫陽花はまだ咲いていなくて、それは新芽ばかりのうすみどりの紫陽花だ。「だいじょうぶです、」は、どこにどう咲くかまだわからない不安に対する声かけでもある。だから、詩が嵐の真夜中を通り過ぎて朝へ抜けると、無事に梅雨にランディングできることを知った身体は休まって、宥める役目を果たした「内側の産毛が/抜け落ち」る。
 すごく慎重に、感情の置きどころを選ぼうとしている詩だと思った。「感情」と名指すことさえ強すぎるかもしれない。世界に対するちいさな罪悪感を抱えながらも、明日がただしく明日であるようにとささやかに願う気分のようなものを、この詩は告白しようとしている。未来の前触れがもたらす緊張を、ひとつの身体がどうやり過ごすのかが、ていねいにていねいに掬いとられている。