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GIRLS ROCK BEGINNINGS

2020.12.25

GIRLS ROCK BEGINNINGS VOL.04 尾崎亜美[前編]

撮影/鋤田正義

取材/山中聡、君塚太 文/君塚太

スタイリング/山﨑昭子

日本を代表する女性ミュージシャン達が、初めて音楽に触れた瞬間を語ります。未知の文化と出会い、日々の生活が大きく変わっていった実感。未来への扉が開かれ、一気にキャリアが広がっていった体験。彼女達のイノベーションには、あなたのワナ・ビー=自分はこうなりたいと願う理想像を実現させるためのヒントに溢れています。
 第4回のゲストは尾崎亜美さんです。尾崎さんといえば1976年、「十代の天才シンガー・ソングライター」としてデビュー。翌年の春には資生堂・スプレンス クリスタルデュウのキャンペーン・ソング、「マイ・ピュア・レディ」をヒット・チャートに送り込み、華やかにキャリアをスタートさせた印象が強く残っています。作詞・作曲・編曲の才能だけではなく、ピアノの実力も確かなものがあり、コケティッシュなポップスからハスキーな声質で歌い上げるロックまで、ヴォーカリストとしての幅広さも兼ね備えています。さらには後年、小説や料理書を出版するなど、とにかく多才な女性であり、器用でそつがない人物像が浮かび上がってきます。ところがインタビューを始めてみると、尾崎さんからは意外な言葉の数々が語られました。「コミュニケーションが苦手で、嘘ばかりついていた」「自分の声が大嫌いだった」など、など……。たくさんのコンプレックスを抱えた少女は、音楽の力を借りて、どのように自分の道を切り拓いていったのでしょうか。
 デヴィッド・ボウイ、T. REX、YMOなどのミュージシャンを撮影し続け、今もなお世界各国で写真集が出版、個展も開催されている写真家・鋤田正義さんの撮り下ろしポートレイトとともに、尾崎亜美さんの言葉を味わっていただければと思います。

「嘘つき少女」が音楽に出会ったとき

 音楽は子どもの頃から身近な存在でした。私は京都生まれで、近所に西陣織の織り屋さんが多かったんです。街には織り子さん——昔は「おへこさん」と呼んでいましたが——がたくさんいらして、織り子さんの文化の活動ということで、父が合唱団を組織していたんです。音楽を教えて、時々指揮をしたり……父は京都府の地方公務員だったんですが、セミプロのような感じで活動していたんです。作曲をしたり、声楽をやっていたので、声もすごくよかったですね。
 もともと家にはオルガンがあったんですけれど、8歳くらいのときに両親がピアノを買ってくれました。それは私がコミュニケーションをとるのがすごく苦手な子どもだったからなんです。身体もとても弱くて、親としては心配だったようで「ピアノが何かを変えるきっかけになれば……」と買ってくれたんです。
 なんというか、私は嘘つき少女だったんですよ(笑)。普通のことを話すのが、怖くてできなかったです。否定されるのが怖かったんでしょうね。例えば、夏休みにどこへ行ったのか、2学期の始めに自慢し合ったりするじゃないですか。実際には、どこにも行ってないですけれど、最初は「船岡山へ行った」と言ったんです。船岡山というのは、近所の丘なんですが、「そんなのいつでも行けるやーん!」とからかわれたので、私は「でもな、あの林の中にな、1メートルのアリがいたんやで」と言ったら、ハワイに行った子が話したときよりも、みんなの顔がキラッキラになったんです。それから「今日の青空は、私が早起きしてペンキ塗りました」とか、「うちには地下の国と話せる電話があります」とか……友達はたぶん嘘だと気づいていたと思いますが(笑)。

ピアノとお話をするという発想

 ピアノと最初に向き合ったとき、私は「この子と仲間になれるかどうか」が心配でした。ピアノを擬人化していたというか、強烈なキャラクターとして私の前に現れた友達みたいに考えていたんです。歯並びがとてもよくて、カチッとした感じの子で(笑)。右のほうをポンと弾くと、ピロンとかわいらしい音がして、下のほうを弾くと、デーンとすごく重たい音がする。「あ!」と思って、もしかしたら私はこの子とお話しできるかもと思ったんです。話がヘタで、嘘ばっかりついていた私が、音楽という言葉をそのときに初めて知りました。
 それ以降はずっとピアノとお話をするという発想で、音楽と触れ合っていきました。今でも音楽という言葉で話せることを探すために生きているようなところがあります。まあ、大げさに言うとですけれど。それは子ども時代にせっぱ詰まった思いがあったからだと思うんです。自分のことを表現するのが苦手だった中で、お友達になれたのがピアノだったから。

「アウト・オブ・コード」な先生との日々

 それとピアノの先生との出会いも大きかったですね。すごく厳しい男性の先生で、もともとは姉にピアノを教えるために家に来てくださっていたんです。先生が姉を待っている間に、私が「あのね、あのね。(ピアノの鍵盤の)ここを弾くとね、雨の音がするの。ここをデーン、デーン、デーンとやると怪獣が来ます」なんて、先生にものすごく得意気に話したんですよ。そうしたら先生が、「この子を教えたい」と言ってくださって、私が教えていただくことになったんです。
 めっちゃスパルタだったし、怖い先生でもありましたが、私にとっては楽しく音楽を学べた日々でした。クラシックのピアノなので、基本的にはバッハの曲などを弾くんですが、コードネームを挙げて、「このコードに合うメロディを考えてきなさい」という宿題が出されることもあったんですね。それで考えたメロディを弾くと、「ああ、つまらない」とおっしゃられて。「これは何を物語にしたかったの?」と。「いえ、何もありません」と答えると、「あなたは最初、雨の音がするとか言っていたでしょう。自分のメロディからは何も感じないの?」と言われて、「よーし、見てろ!」と(笑)。だんだん私もセオリーから外れるようになって、アウト・オブ・コードといいますか、ちょっと不思議な音階を使ったり、先生に挑戦するような気持ちになっていって。先生もそれに応えて、ブォーッと低音と高音で伴奏をつけてくださるんですよ。私もそれに合わせてメロディを弾き始めて、めくるめく音楽の世界が展開されるんですね。別の日には聖書を読まれて、「この聖書の文言、その言葉で何か感じたことを弾いてみなさい」という課題が出たり。そういう型破りなところがあって、厳しいことを言われても耐えられたし、とにかく楽しかったんです。

演劇部、軽音楽クラブ、キャロル・キング

 小中学生の頃は、洋楽のポップスやロックは全然知らなかったですね。日本の歌謡曲ですら、あまり聴いていませんでした。父親から歌謡曲のテレビ番組を観ちゃいけないと言われていたので。『てなもんや三度笠』を観るのは許されていたんです。なぜかお笑いはOK(笑)。『シャボン玉ホリデー』はダメだったかな……母親は柔軟な人だったので、ちょっとイケナイことをしているような気持ちになりながら、母親と観て「ザ・ピーナッツってうまーい、すごーい」と思った記憶があります。映画では『サウンド・オブ・ミュージック』が好きでした。初めて観たのは高校生のときだと思いますが、その後5〜6回は観ていますね。もう感動。大好き。映画の場面を思い出すだけでも胸が熱くなります。
 中学生になって、入学した学校には演劇部がなかったので、私は何人かの有志と新たに演劇部を立ち上げたんです。既存のクラブには入りたくないという気持ちと、父親の兄で、戦死した伯父が俳優だったことも多少は影響しているかもしれません。演劇部では、いろいろな役もやりましたが、共同で脚本を書いたりもしていました。星新一さんのSF小説を原作にして。ただし、本気で発声の練習をしたり、演劇の基礎を勉強したわけではないので、お芝居をやっていましたとは、とても言えないですね。
 高校では演劇部に入ろうか、人を笑わせることに憧れがあったので落研(落語研究会)に入ろうか迷ったのですが、お友達に軽音楽クラブに誘われるんです。私がピアノを弾けることを知っていて、「少しのあいだでもいいから、軽音楽クラブに入って」と言われて、入部することになりました。父がクラシック以外は音楽を認めていなかったので、親には内緒で。そこで初めて洋楽を知って、素敵だなあと思うようになりました。「キャロル・キングの曲って、カッコいいな。こんな分数コードを使っているんだ!」なんて。それはビートルズでもあるし、カーペンターズでもあるし。ただ、私はピアノを弾くので、(同じくピアノを弾くシンガー・ソングライターである)キャロル・キングはとても大きい存在でしたね。今でも大好きで、憧れのミュージシャンを聞かれたらキャロル・キングと答えますし、女性としてもキュートだと思います。

「けったいな声」から「ええ声」へ

 この頃の音楽に対しての意識はピアノを習うことの延長で、人前で歌うような勇気はまだなかったですね。私は幼い頃から姉に「けったいな声やな」とからかわれていたので、家族の前では絶対に歌わなかった。本当に自信がなくて、自分の声が大嫌いだったんですよ。姉には鼻歌も聴かれないようにしていたくらいで、ものすごいコンプレックスでした。父親は本当にいい声だったのに。私が生まれるときに、「美しい鈴のような声の子が生まれますように」という願いを込めて「美鈴」(本名)と命名されたのに、家族をがっかりさせたと思っていたので、余計に「私は歌っちゃダメなんだ」と。
 でも、あるとき、軽音楽クラブでビートルズの「Two of Us」を歌うことになったんです。みんなで声を出して練習していたら、部長がふと私の前で足を止めて、「お前、声が大きいなあ」と指摘されて、私は声が変だから目立っちゃったのかと思ったんですけど、「ええ声してたで」と言われて、ソロパートを歌うことになりました。それで、「大変だー。みんなに変な声だと笑われる」と心配したんですが、部長が誉めてくれた、その言葉に背中を押されて練習を続けていたら、やっぱり父親の血のお陰でしょうか、周りからも評価されるようになって。
 高校生くらいになると、だいぶ周りともコミュニケーションがとれるようになっていました。自分の行動範囲が広がれば広がるほど、自分と近いちょっと変わった人とも出会うようになるというか(笑)、仲間を見つけやすくなるんですよね。小学校では見つけられなかったお友達が、中学校では演劇部を立ち上げるときにできた。高校になったら、さらにもう少し広がっていった感じ。少しずつ私のダメダメなところが、軽くなっていったのでしょうね。
 何かチャレンジするのが楽しくなって、例えばいろいろな楽器に挑戦するようになりましたし。一番がんばったのはウッドベース。私は身長が150センチしかないので、まず運ぶのが大変でしたね。でも、ウッドベースを持っていると、ものすごく面白いんですよ(笑)、見た目が。京都を走っていた市電で、なんとかウッドベースを運んでいると、それだけで楽しい気持ちになれました。それ以外にも、ボンゴやコンガを叩いたり、フルートを吹いたり。一定のレベル以上までいけたのはピアノだけでしたけれど、私の中では少しずつ自信のようなものが芽生えてきたのかもしれません。

Life Begins at 60
2018年に60歳を記念しリリースした、7曲入りのコラボレーション・ミニアルバム。ゲスト・ヴォーカルとして参加した槇原敬之、miwa、根本要、chay、小坂忠、男性声楽ユニットのLa Dillとともに自身の楽曲リメイク。最後はソロで歌う書き下ろしの新曲「Harmony」で締める。小坂忠との「風のライオン」は、高いレベルの歌唱が溶け合う出色の出来。
My Songs for You 尾崎亜美 40th Anniversary BEST
2016年にリリースされたデビュー40周年記念ベスト・アルバム。デビュー・シングルから近作、他のアーティストへの提供曲のセルフ・カヴァーから企画作品まで。数多くの名曲の中から、尾崎亜美が自らセレクトした50曲をCD3枚に収録。レコード会社の垣根を越えた集大成であり、本人にとっても「とにかく、“思い入れ“の強いベスト・アルバム」。

尾崎亜美

ミュージシャン

1976年、シングル「冥想/冬のポスター」でデビュー。同年、松任谷正隆プロデュースによるファースト・アルバム『シェイディ』をリリース。翌年、シングル「マイ・ピュア・レディ」が資生堂のCMに起用され大ヒット。その他、「冥想」「初恋の通り雨」「21世紀のシンデレラ」「My Song For You」「蒼夜曲(セレナーデ)」などが代表曲として知られる。楽曲提供も南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、高橋真梨子「あなたの空を翔びたい」、松田聖子「天使のウィンク」、観月ありさ「伝説の少女」など多数。アレンジ、プロデュースも手がける。近年は(コロナ渦が起きるまでは)精力的にコンサートを行いつつ、2018年には60歳記念ミニアルバム『Life Begins at 60』リリース。また、2007年には日本ソムリエ協会のソムリエ・ドヌール(名誉ソムリエ)に就任、初の料理書『尾崎亜美のうちごはん』(講談社)を出版するなど飲食に関する造詣も深い。
https://www.amii-ozaki.com/