次の記事 前の記事

GIRLS ROCK BEGINNINGS

2020.10.23

GIRLS ROCK BEGINNINGS VOL.03 野宮真貴[前編]

撮影/鋤田正義

取材/山中聡、君塚太 文/君塚太

ヘアメイク/Noboru TOMIZAWA

日本を代表する女性ミュージシャン達が、初めて音楽に触れた瞬間を語ります。未知の文化と出会い、日々の生活が大きく変わっていった実感。未来への扉が開かれ、一気にキャリアが広がっていった体験。彼女達のイノベーションには、あなたのワナ・ビー=自分はこうなりたいと願う理想像を実現させるためのヒントに溢れています。

 第3回のゲストは野宮真貴さんです。野宮さんは1981年にデビュー。1970年代の終わりにニューヨーク~ロンドン~東京へと飛び火したパンク・ロック・ムーヴメントが、YMO登場などを経て、ニュー・ウェイヴへとカテゴリーが変わりつつある中、ソロ・シンガーとしてスタートを切りました。90年にはピチカート・ファイヴの3代目ヴォーカリストとして迎えられ、一躍その存在が注目されることになります。「作詞・作曲・プロデュース=小西康陽」+「歌・ヴィジュアル=野宮真貴」というケミストリーから生み出された作品は、「渋谷系の代表」という国内での位置づけを超え、海外のスタイリッシュなリスナーも魅了。パリコレをはじめとするファッション・ショーや『プレタポルテ』『チャーリーズ・エンジェル』などの映画でも楽曲が使われ、95年にはアメリカ/ヨーロッパ・ツアーも行いました。当時、野宮さんは海外で「東洋のバービー人形」と讃えられていましたが、2001年の解散からソロで活動をする現在まで、「歌うファッション・アイコン」であり続けています。幼い頃から歌手になることが夢であり、おしゃれも大好きだったという野宮さんが、どうやって自分の夢を実現していったのか、たっぷりと語ってくださいます。
デヴィッド・ボウイ、T. REX、YMOなどのミュージシャンを撮影し続け、今もなお世界各国で写真集が出版、個展も開催されている写真家・鋤田正義さんの撮り下ろしポートレイトとともに、野宮真貴さんの言葉を味わっていただければと思います。

とにかく歌うのが大好きだった

 私は子供の頃、父親の仕事の関係で北海道と東京を行ったり来たりしていたんです。北海道で生まれて、小学校に入学した時は東京。10歳の終わり、5年生の2学期くらいにまた北海道へ転勤になって、室蘭に引っ越しました。
 物心ついた頃から、とにかく歌うのが大好きで、テレビから流れてくる歌謡曲を歌っていたんですけれど、なかでもNHKの『ステージ101』(1970年~74年放送)が大好きでした。出演者には歌って、踊れる10代、20代のグループ、ヤング101がいて、私もメンバーになりたかった(笑)。それが室蘭に引っ越した頃の夢ですね。
 当時、父親がステレオを買ったんです。私のためにレコードも買ってくれて、それがミッシェル・ポルナレフとカーペンターズ、セルジオ・メンデス。ミッシェル・ポルナレフは「シェリーに口づけ」のシングルでしたね。『ステージ101』でも洋楽を日本語の詞でヤング101が歌ったりしていたので、誰の曲とは知らずに「いい曲だなあ」と思って聴いてはいたんですけれど、父が買ってくれたレコードを初めてステレオで聴いて、世界には本当にいい音楽がたくさんあるんだなあと改めて思いました。今考えると、その3枚はフレンチ・ポップ、ソフト・ロック、ボサノヴァで、渋谷系のルーツになる音楽に10代前半から触れていたことになるわけですから、私のその後の人生はここから始まっていたんでしょうね。でも、歌いたい衝動がすごく強い私にとっては、歌詞がフランス語、英語、ポルトガル語だったのは、ちょっと困りましたね。英語を習い始めるのは中学生からですから、まだ全然意味が分からなくて、全部耳で聴いてコピーして、適当に歌っていたという記憶があります(笑)。

『小さな恋のメロディ』の制服に憧れて

 11歳のときに、初めてお友達と一緒に映画館に行った記憶があるんです。観たのは『小さな恋のメロディ』(日本公開1971年)。映画も素敵でしたし、ビージーズのテーマ曲(「メロディ・フェア」)もとても美しい曲でした。私と同じ年代の子供達が主人公なんですけど、子供のくせに70年代ファッションできめていてカッコいいんです。パブリックスクールの制服が、女の子はブルーのギンガムチェックのワンピースで、すごく憧れましたね。母親に同じようなワンピースを買ってもらったことを憶えています。制服以外でも、学校のパーティで同級生が集まるシーンがあって、みんなおしゃれでかわいいの。主人公のマーク・レスターは11歳の設定なんですが、イギリスでは普通に恋愛しているんです。学校を抜け出して、デートしたり。それが北海道の小学生にはショックでしたね。11歳で大人みたいに恋愛するなんて!とショックを受けながらも、主人公の友達役のジャック・ワイルドを素敵だと思って観ていました。ちょっと不良っぽいところが(笑)。

東京から来たファッション・リーダー

 性格は本来、内向的だと思うんです。東京の小学校にいた頃は、学校でもほとんどしゃべらなかった。実は歌うのが好き、みたいな面があるんですが、表に出すことは全くなかったですね。それが北海道に転校したら、変わっていくんです。東京と北海道って、当時は少し時差があったというか、東京で流行っているお洋服とか、まだそんなに売ってなかったりするので、普段着でも目立ったみたいで。転校してからはファッション・リーダーになっちゃったんです(笑)。
 別に私がファッション・リーダーになりたかったわけではなくて、入学前から「東京から転校生が来る」と盛り上がっていたみたいでした。だから余計に注目されて、私が着ていたお洋服や、当時していた髪型がクラスの女の子達に流行していくんです(笑)。母が洋裁が得意でおしゃれな人でしたからね。ピエール・カルダンのコスモコール・ルックが流行っていて、母もピエール・カルダンのミニのワンピースを着ていたのを憶えています。母にはいつもかわいいお洋服を着せてもらっていたし、つくってもいました。ちょうど『an・an』(1970年創刊)や『non-no』(71年創刊)が出始めた頃じゃないかな。そういうファッション誌も、父が母のために買ってきて家にあったので、私も参考にしながら母に「こういうお洋服をつくってほしい」と言っていましたね。11歳のお誕生日には、ピエール・カルダンのジャンパースカートをお手本に、2パターンでつくってもらいました。私のファッションの原点はここにあるような気がします。

ロック+ファッション、グラム・ロックの衝撃

 中学2年生の頃に、今度は千葉に引っ越すんです。そこからはロック一筋。クラスでロックを聴いている女子はほとんどいない時代。みんなアイドルを追っかけていたけれど……私はグラム・ロックにはまって。クラスの男子が聴いていたビートルズも聴いていましたが、私はグラム。
 T. REXやデヴィッド・ボウイ、シルバーヘッドやニューヨーク・ドールズに一目惚れというか、ショックを受けました。私は音楽も好きだけど、同じくらいファッションも好きだったので、その両方が魅力的なグラムにすごく衝撃を受けたんです。だから今日、T. REXやデヴィッド・ボウイを撮影された鋤田さんに写真を撮っていただけると聞いて、本当に光栄です(笑)。
 最初に行ったロック・コンサートは、1975年のワールド・ロック・フェスティバル(・イーストランド)。内田裕也さんが後楽園球場で開催して、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズも出演しました。私にグラム・ロックを教えてくれた、クラスで唯一ロックを聴いていた女友達が誘ってくれて。でも、そのときはまだロック少女になりきれてなくて、アイビールックで行っちゃったんですよ(笑)。まわりの女の人はノーブラにTシャツ、ジーンズ姿なのに、場違いな子が紛れ込んだみたいな感じで恥ずかしかったですね。

「キッスが好き」というより「キッスになりたい」

 ワールド・ロック・フェスティバルの次の日から、ヴィジュアルは全身ロック・ファッションに変えました。こういう変わり身の早さは自分の数少ない才能のひとつだと思うんです(笑)。ファッション誌は見なくなって、音楽誌の『ミュージック・ライフ』などを参考に、ロック・ミュージシャンの着こなしを真似しました。
 ジェフ・ベックの胸に輝くインディアン・ジュエリーのクロスのペンダントを一生懸命探したり。クイーンのドラムのロジャー・テイラーが被っていたデニムのパッチワークのキャスケットとそっくりな帽子を買ったり。とにかくお手本はロック・スター。当時あった原宿のセントラル・アパートの地下に、小さなロック系のファッションの店がいろいろ入っていたんですよ。アンニュイな雰囲気の店員のお姉さんがタバコをくゆらせながら店番やっていて、緊張しながら見て回るんですが、お金もないのであまり買えなくても楽しかったです。とにかく今のように情報がないので、海外の音楽誌を銀座のイエナという洋書屋さんで立ち読みしたりね。
 ちょうど高校に入ったくらいで、『ミュージック・ライフ』ではクイーン、キッス、エアロスミスが三大バンドとして表紙を飾っていました。なかでも私が一番好きだったのがキッス。初来日(1977年)から来日公演は毎回欠かさず観に行っています。
 衣装もメイクもキッスは圧倒的にオリジナルな世界観があって、ショーアップされたステージも魅力でしたね。二度目の来日公演(78年)のときは、好きすぎて清掃係のフリをして日本武道館にしのび込んじゃいました(笑)。どうしてもメイク前の素顔が見たくて。ライヴの前日にリハーサルをやるという情報が入ってきて、前日にしのび込んで……。1階席の座席の下に隠れていたんですが、結局、関係者の人に見つかって、つまみ出されました(笑)。
 キッスは私にとって大好きなアイドルでしたが、女の子として好きな男性アイドルを追っかけるのと、ちょっと感覚的に違うんですよ。ロック・スターが好きというよりも、私は自分自身がロック・スターになりたかった。だからふだんから男の子っぽい、ロック・スターっぽいファッションをしては悦に入っていましたね。キッスのコンサートは、あのメイクをして行きました(笑)。衣装も全部つくって。友人4人でメンバーになりきって。私はエース・フレーリー役でした。もう気分はキッスと同化しちゃっているんですよ。

miss maki nomiya sings
2000年、ピチカート・ファイヴ時代に唯一リリースしたソロ・アルバム。鈴木慶一、本田ゆか(CIBO MATTO)、テイ・トウワ、HEESEY(THE YELLOW MONKEY)などの参加で多彩な魅力が引き出された。HEESEYはインタビューでも語られているキッスのファン同士として交流があった。2019年のリイシューでは横山剣とのコラボ「地球を七回半まわれ」も収録。
野宮真貴 渋谷系ソングブック
2014年の『野宮真貴、渋谷系を歌う。~Miss Maki Nomiya Sings Shibuya-kei Standards~』から、2017年の『野宮真貴、ホリデイ渋谷系を歌う。』まで、シリーズ全5作から代表曲をコンパイルしたCD2枚組「渋谷系」ベスト盤。「東京は夜の七時」はピチカート・ファイヴ解散後初となる小西康陽編曲・プロデュースによる新録。2018年リリース。
Maki Nomiya Official Mobile Fanclub
おしゃれ御殿



野宮 真貴

ミュージシャン

ミュージシャン/エッセイスト ピチカート・ファイヴ3代目ヴォーカリストとして、90年代に一世を風靡した「渋谷系」ムーヴメントを国内外で巻き起こし、音楽/ファッション・アイコンに。現在は“渋谷系とそのルーツの名曲を歌い継ぐ”音楽プロジェクト「野宮真貴、渋谷系を歌う。」を行うなど、ソロアーティストとして活動。2020年は還暦イヤーを迎え、音楽、ファッションやヘルス&ビューティーのプロデュース、エッセイストなど活躍の幅を広げている。著書に『赤い口紅があればいい』『おしゃれはほどほどでいい』(ともに幻冬舎刊)などがあり、ロングセラーになったものも数多い。2020年9月24日には還暦にして初となるモバイルファンクラブ「おしゃれ御殿」をオープン。“音楽とおしゃれで繋がる”ファンサロンとして、新たな試みを用意している。
https://www.missmakinomiya-fc.com/
http://www.missmakinomiya.com/