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Now, Then!

GIRLS ROCK BEGINNINGS VOL.02 岸谷香[前編]

2020.07.29

撮影/鋤田正義

取材/山中聡、君塚太 文/君塚太

ヘアメイク/室岡洋希

日本を代表する女性ミュージシャン達が、初めて音楽に触れた瞬間を語ります。未知の文化と出会い、日々の生活が大きく変わっていった実感。未来への扉が開かれ、一気にキャリアが広がっていった体験。彼女達のイノベーションには、あなたのワナ・ビー=自分はこうなりたいと願う理想像を実現させるためのヒントに溢れています。
 第2回のゲストは岸谷香さん。岸谷さんは、1986年にプリンセス プリンセスの一員としてデビュー。ガールズバンド初の日本武道館公演を実現し、「Diamonds<ダイアモンド>」が89年の年間No.1ヒットを記録するなど、日本で初めて大きな成功を収めた女性ロックバンドになりました。岸谷さんが歌い、作曲を手がけた数々の名曲は、今なおコマーシャルソングなどに起用される機会も多く、愛され続けています。96年に解散し、結婚。ソロミュージシャンとしての活動をスタートさせますが、長男が生まれたことをきっかけに、子育て中心の生活に。2012年、東日本大震災復興支援のため、16年ぶりにプリンセス プリンセスを1年間限定で再結成し、その後は若いミュージシャンとともに新バンド、Unlock the girlsを結成するなど本格的に音楽活動を再開しています。岸谷さんが音楽とともに歩んできた道は、一人の女の子が夢を実現させたモデルケースであり、年を重ねながらプライヴェートと仕事にどのように向き合っていくか、その試行錯誤の日々でもありました。インタビューの前編では、岸谷さんのライフストーリーを切り拓いていく音楽との出会いをじっくり語ってくださいます。
 デヴィッド・ボウイ、T. REX、YMOなどのミュージシャンを撮影し続け、現在も世界各国で写真集が出版、個展も開催されている写真家・鋤田正義さんの撮り下ろしポートレイトとともに、岸谷香さんの言葉を味わっていただければと思います。

ピアノとリルケの詩集 自然にメロディーに向かう心

 最初に触れた音楽は、クラシックでした。母のピアノが家にあったので、子供の頃から弾いていたんです。それこそ首が据わるようになった頃、ピアノの前に座って鍵盤に触っている写真がありましたから、かなり幼い頃からでしょうね。バイエル(ピアノ初心者向けの教則本)くらいまでは母に教えてもらって、その後は先生について。ショパンが好きでずっとピアノは続けていたんですが、とにかくコンスタントに努力をするのが苦手だったので(笑)、なかなか上達はしませんでした。そうそう……でも、小学校のときから、自分でピアノを弾きながら曲はつくっていましたね。
 チッチとサリーが主人公の漫画(みつはしちかこ『小さな恋のものがたり』)があったじゃないですか。それを詩集にした本が、なぜか我が家にありまして、載っていた詩に曲をつけて歌ったりしていました。今でもなんとなくそのフレーズを憶えているな。「永遠なんてきっとないけれど、毎日の小さなことをつなげていくと、きっと永遠につながる」みたいな恋の詩でしたね。
 それと、これも誰のものだったのか分からないんですが、(ライナー・マリア・)リルケの詩集も家に置いてあったんです。その中で1編好きな詩がありまして、メロディーをつけました。「作曲」をしているという意識ではなく、暇つぶしみたいな感覚で言葉に曲をつけていただけなんですけどね。ただ、詩を読んで影響を受けて、自分でも詩を書こうという気には一切ならなかった(笑)。今でも詞を書くことにはあまり積極的になれなくて、子供の頃から作曲のほうが得意というか、自然に気持ちがメロディーへ向かっちゃうんですよ。

『ベストヒットUSA』と『ザ・ベストテン』

 クラシックってポップスとは全然違うようなイメージがありますけど、ピアノを弾く感覚でいえば同じ。中学3年くらいのとき、音楽の授業で初めてコードを習って、「へえ、マイナーコードは悲しい響きがある和音で、メジャーは明るい和音なんだ」と知りましたが、それ以前にショパンを弾きながらコードの存在には気づいていたと思います。コード名は知らなくても、コード自体は知っていた。今振り返ると、ショパンの曲の中でセブンスのコードを弾いていましたから。もちろんクラッシックは難解な面があったり、ポップスのような規則性はなかったりしますけれど、やっぱり同じ音楽なんですよ。ドレミファソラシドの組み合わせである以上。譜面を読む勉強をサボっていたおかげで、耳で聴き取る力が発達して、そういう感覚を身につけられたのかもしれません。
 ポップスやロックの曲を最初に好きになったのも、小学生の頃です。ABBA(アバ)を聴いて、いいなあと思いました。日本のアーティストでいえば、矢野顕子さんやYMO、それとゴダイゴですね。そうこうしているうちにテレビ番組の『ベストヒットUSA』を観るようになって、洋楽も聴き始めます。レインボーやディープ・パープル、マイケル・シェンカーがいたUFO。アイアン・メイデンとかヘヴィメタルも一応通りましたが、最終的には明るくポップなものが好きになっていきましたね。
 流行っていた歌謡曲も、もちろん曲は知っていましたけれど、自分が熱心に聴いていたというより、友達と学校で「昨日の『ザ・ベストテン』、1位はあの曲だったよね」なんて話題になったとき、ピアノで弾いてあげたことを憶えています。その場で「あの曲、弾いて」とリクエストされて弾けたんです、譜面がなくても。なんとなく聴いていただけで、耳からコピーできましたね、不思議なことに。

音楽室を独占 「耳からコピー」する日々

 最初にバンドを始めたきっかけも、そんな学校での日常から生まれました。私は小学校から中学校まで同じ附属の学校にいたんです。だから全員一緒に持ち上がるので、中学校に入ったばかりでも、1コ上の先輩で私のことを知っている人がいる。「あの子、音楽の発表会や卒業式で伴奏していた子だよね」「ピアノが弾けるはずだ」ということになって、バンドにキーボードとして誘われました。「YMOのコピーバンドやるんだ」と言われて、早速「ライディーン」ですよ。どんな曲でも、わりとサラッとコピーはできましたね。でも、矢野顕子さんの曲は難しかったな。当時は分からなかったけれど、何度も転調する曲があるんです。譜面が読めなかったから、一生懸命、自分で音を探して。それも楽しかったですね。
YMOのコピーバンドから始まって、女の子4人でバンドをやっていたときもありました。コピーは、コピーでしたけれど。どんな曲を演奏していたかな……ブロンディの「コール・ミー」を私のリクエストでやったのは憶えていますね。当時のガールズバンドだとランナウェイズ? どちらかというとゴーゴーズかな。ランナウェイズにはあまり興味がなかった。中学生以降も、とにかく『ベストヒットUSA』で流れるような曲は全部好きでしたね。それこそシンディ・ローパーとかマドンナとか。ホール&オーツも大好きでしたし。女性ヴォーカルのバンドならプリテンダーズ。何を聴いてもポップだし、楽しかったですね。
 勉強は……ほとんどやっていなかった(笑)。中学の3年間はバンドばかりやっていました。別に不良だったわけではないですよ(笑)。バンドといっても、あくまで学校の中でやっていたことですから。ラッキーだったのは、私が行っていた学校は進学校ではあったので、楽器に興味のある子が極端に少なくて、楽器も音楽室も独占状態。学校にある楽器も持って帰って、家で練習もできたので。アンプもあるし、ドラムセットもあるし、シンセサイザーもある。YMOをコピーできるくらいだから、楽器的な環境はすごく豊かでした。私もキーボードだけじゃなくて、ベースをやったり、ドラムもやってみたり。だから伸び伸びできて、ある程度上達したのかもしれない。

人生最初の挫折がきっかけでオーディションへ

 ミュージシャンになりたいと思っていたわけではないんです。あくまでバンドは私にとって楽しい遊びであって……楽しくて、楽しくて、遊びすぎて、高校受験に失敗しちゃったくらいで。そうそう、なんか話していて、いろいろ思い出してきました(笑)。
 高校受験の失敗が人生で最初の挫折でした。志望校に受からず、唯一、合格したのが、校則がすごく厳しくて、あまり自分とは合わなそうな高校だったんです。私は長女だったので、親の期待も大きかったと思うんですけれど、私が受験に失敗して、家の中の雰囲気が真っ暗になりました。そんな中、母方の叔父が、「学校なんてどこだっていいじゃないか。1校だって合格したんだから、おめでたいよ。香、お祝いになんでも買ってやるぞ」といってくれたんです。で、買ってもらったのがベース。ベースを選んだのは、ギターだとコードを押さえるのが難しいというイメージがあって、単音のベースならなんとかなるんじゃないかと思ったことがひとつ。それと当時のボーイフレンドが沢田研二さんの大ファンで、バックで演奏していたエキゾティクスの存在を知るんですね。ちょうど「ス・ト・リ・ッ・パー」が流行っていた頃で、ベースをコピーしてみたら本当に面白くて。後に私は沢田研二さんに曲を提供させていただいたり、ベースの吉田健さんともお仕事することになるんですけれど。
 そのベースを持って私はオーディションを受けにいきました。「レディースバンドのメンバー募集」のオーディションで、ドラム、ベース、ギター、キーボードとパートごとに応募受付があって……私はベース部門。ヴォーカルの募集はなかったから、メンバーみんなで歌をうたうようなイメージだったんでしょうか。

母の「正論」VS. どうしてもあきらめられない私

 深く考えてオーディションを受けたわけじゃないんです。高校をやめるための手段みたいな気持ちでしたね。どんな芸能活動も校則で禁止だったので、「もし、オーディションに受かれば、学校をやめられるかな?」なんて軽く考えていたんです。内心は「私が受かりっこない」とは思っていましたから、親にも内緒だったんですが……合格を知らせる電話が来たわけですよ。「バンドに参加するかどうか、1週間後まで回答を待ちますから、親とよく相談してください」「はい、分かりました」と。「もし、私が断ったらどうなるんですか?」と聞いたら、「次点の子に話がいきます」ということでした。
 さあ、そこから親になんと伝えればいいんだろうから始まって、本当に毎日のように話し合いましたね。親はとにかく反対し続けて、母からは「香、勉強はひと晩やれば、なんとかテストでも点がとれる。一夜漬けができる。でも、音楽みたいな特別な才能は、いくら努力しても結果につながらない場合がほとんどでしょう。だから、あきらめなさい」と断言されましたね。今思うと本当にその通りだなと思うんですけれど(笑)、私がどうしてもあきらめられなかったのは、例えば私が断ったら次点の子がバンドに入るわけじゃないですか。それで、バンドが後にすごく成功したとして、私は友達に「あれ、本当は私がやる予定だったんだ。私が断ったからあの子がメンバーになったんだよ」とか説明するのかなと。そんなシーンを想像したら、メッチャ負け犬というか(笑)、ダサすぎるというか、絶対我慢できないなと思ったんですよね。私が必死に説得して、最終的に親がいったのは「高校時代のクラブ活動の延長だと思って許します。2〜3年やって結果が出て、自分の実力も分かって、あきらめがついたら、大学にはきちんと行って、何事もなかったかのように人生を元に戻しなさい」ということでした。それで私は実家を出て、オーディションに受かったメンバーが生活する合宿所のようなところに入ることになりました。

『Unlock the girls』
2017年、50歳を迎えた年に、若手ミュージシャンとともに(アマチュア時代のバンド、プリンセス プリンセスに続く)「人生3つ目のガールズバンド」を結成。翌年にはバンド名と同タイトルのミニアルバムをリリース。本作は第2弾となる2019年のフルアルバム。年を重ねても新しいミュージシャン、未知のプロデューサーと組もうと試みる姿勢が結実した作品。
『Dialogue~涙の理由~』
岸谷香の作品には、キャッチーなロック/ポップスだけではなく、曲全体を通してメロディーの美しさが伝わる「純音楽的」なものも多い。2017年のこのミニアルバムは、他のアーティストへの提供曲、プリンセス プリンセス時代の曲を含め、自作をチェロとのセッションで再録した贅沢な企画盤。岸谷メロディーとクラシックアレンジの相性のよさが証明された一枚。

クリエイターの紹介

岸谷 香

ミュージシャン

1983年に行われたオーディションで渡辺敦子、中山加奈子、富田京子、今野登茂子と出会い、86年にプリンセス プリンセスとしてデビュー。以降、13年間の活動期間で190万人をライヴに動員。「Diamonds<ダイアモンド>」、「M」など数々の名曲をリリースし、そのほとんどの作曲を手がける。96年の解散後に結婚、2001年に子供を授かったことをきっかけに、それまでの活動名「奥居香」を「岸谷香」に改名。その後は、ほぼ育児に専念する生活が続いた。2012年、東日本大震災復興支援のため、16年ぶりにプリンセス プリンセスを1年間限定で再結成。仙台サンプラザホール、日本武道館、東京ドームで公演を行った。その収益は被災3県の地域医療への義援金、仙台PIT建設のための寄付などに充てられた。2014 年、ソロの活動を本格的に再開。2016年、10年ぶりのオリジナルアルバム『PIECE of BRIGHT』をリリース。2017年には若手女性ミュージシャンとUnlock the girlsを結成。レギュラーのラジオ番組にNHK-FM『岸谷香Unlock the heart』、ニッポン放送『オールナイトニッポンMUSIC10』では第4水曜日のパーソナリティを務める。
https://ameblo.jp/kaori-kishitani/
https://www.instagram.com/unlockthegirls/?hl=ja

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