90s in Hanatsubaki
2018.11.19
第1回 自由への編集:『Purple』編集長エレン・フライスとの出会い
文/林 央子
写真/細倉 真弓
1990年代、ファッション、写真やアートに興味をもつ人たちに強い影響力をもった雑誌があった。パリで生まれたその雑誌『Purple』は、遠い街の都市、東京はもちろんのこと、たとえば、ポルトガルのリスボンやオーストラリアのメルボルンや香港などの、アートにまつわる本なども扱うような書店に置かれていた。
わたしが1993年にはじめてパリコレにいったとき、まだファッション・ショーの招待状でもらえるものは数少なくて、ショーを見る時間以外は編集業務の刺激になりそうな情報や体験をもとめて、美術館やギャラリー、書店などをまわっていた。そうしているとき、ポンピドゥセンターのブックショップに置かれた『Purple Prose』見つけた。書店員さんも「よい雑誌よ」とすすめてくれた。当時のわたしは外国の雑誌を毎月4冊紹介する「Covers」というコラムを担当していたので、即座に購入した。ほかにもあたらしい傾向のアート雑誌が出版されていたので、記事にすることができそうだと思ったからだ。
わたしが編集部に入ったときの、編集長は平山景子さん。母と同じくらいの世代なのに、海外出張を頻繁にして、国内外のさまざまなアーティストと交流を楽しむ彼女の姿はとてもまぶしかった。編集部には『花椿』の一年分をまとめて冊子にした「合本」が1950年代から並んでいた。わたしが生まれた年の1966年を手にとると、スタッフの氏名欄にすでに、平山さんの名前があった。1965年の合本にも。自分が生まれる前から編集部にいた人が自分の上司だということは、驚きだった。いろいろなことを彼女から叩き込まれた私だが、一番重要だった教えは「人に会いなさい」ということだったと思う。
初対面の人に会うのは緊張してしまうし、どちらかといえば苦手。そう思って躊躇していたわたしに、「わたしだってそうだったのよ」と平山さんは言った。とても信じられなかった。でもきっと、そうだったのだろう。「編集者は、どんどん人に会いに行きなさい」
だからわたしは、エレン・フライスにも会いに行った。『Purple Prose』をつくっている女編集長。わたしより2歳年下なのに、編集長だ。すごいなぁ。正確には、会いに行こうとした。けれど、帰国迄にもう日があまりなかったので、アポイントはとれなかった。電話をして、スケジュールが会わないわね、ということになったときに彼女は言った。「次はいつ来るの?」。まさか次のことを考えてくれるとは思わなかった。いつ来られるかもよくわからないけれど、ファッション・ショーのシーズンは年2回訪れる。もしかしたら半年後に彼女に会えるのかもしれない。
そうやってわたしは、毎回出張のたびにエレンと連絡をとりあい、会うようになった。わたしも彼女も編集者なので、毎回互いに見せ合うものがある。わたしからしたら不思議なことに、エッジーな情報満載のインディペンデントな雑誌をつくっているエレンは、日本全国の女性にむけて資生堂という企業の姿勢をつたえる文化情報誌『花椿』のことを気に入っていた。今思うと、マーケティングによる誌面づくりを行わない『花椿』独自の編集姿勢である「自分たちの良いと思ったものを取り上げる」という方向性が、彼女の好むところであったのだろう。
当時の東京では、『CUTiE』などの若い女性にむけたストリート・ファッション誌が大人気。パリコレで発信されるファッションと、東京のストリートが発信するファッション、両者の世界の違いにとまどいながらも、エレンには今の東京を知ってほしくて、ホンマタカシさんや長島有里枝さんの、リトル・モアからでたばかりの写真集を手みやげに会ったこともあった。なにかを見せるとすぐに反応して、こんどタカシと一緒にページをつくってくれない? などと機会を与えてくれるのも嬉しかった。
エレンと話していてすぐに『Purple』は『花椿』とまったく違う編集手法をとっていることがわかった。歴史の長い『花椿』には長年受け継がれてきた編集の作法があった。『Purple』は現代アートを主なフィールドとする、キュレーターの女性エレン・フライスと批評家の男性オリヴィエ・ザムというカップルがはじめた雑誌だったので、いろいろな分野の話題を扱うときも、その分野で当然とされている作法とは、まったく違うやり方で取り扱う。たとえばファッション写真を彼らがはじめてあつかったとき(『Purple Fashion』vol.1)それは、スタイリストやヘアメーク、職業的なモデルといった、通常ファッション写真をつくる際に必要と思われるスタッフを介在させず、写真家とデザイナーの服、その組み合わせだけでイメージをつくろうとしていた。ファッション誌の撮影に携わったことのある人なら、それが「通常の」やり方ではないことがよくわかるはずだ。わたしが『花椿』で体験的に知っているファッション撮影とは、もちろん違っていた。
その世界にのぞけるものは「自由」だった。「自由」、そして「平等」。写真家と服のデザイナーが対等に、会話をする。その頃あらわれた写真家にウォルフガング・ティルマンスがいるが、彼もその時代に同じようなスピリットにもとづく試みを、ファッション写真や服という媒体を介在させながら、おこなっていたと思う。エレン・フライスの誕生日は1968年4月15日。パリが五月革命にわいた年だった。現在では彼女との、すでに25年にもわたる交流から「自由」への、「平等」への希求が彼女の生きる姿勢であり、すべてを貫く指針となっていることが実感できるのだが、それは彼女のキャリアのはじまりにあった『Purple』という雑誌にもありありと、あらわれていたのである。