2018年4月、私の家に一冊の『花椿』が送られてきた。No819 SUMMER ISSUE 2018。そこで本棚からもう一冊の『花椿』を取り出してみた。No538 April 1995。
この2冊をつなぐ人は、ソフィア・コッポラ。
誌面の裏側には、あと2人。23年前に『花椿』編集部にいてソフィア・コッポラのインタビューページを企画した私と、むかし資生堂の同期社員でいま『花椿』の編集長になって、「ESSENCE OF ELEGANCE」のペイジをつくった住佳織衣さんがいる。「エレガンス」をいまの読者に伝えるために、ソフィア・コッポラという人のスタイルを取り上げたい。住さんがそう考えて、今はフリーランスで編集や執筆をしている私に声をかけてくれた。当時も今も、『花椿』は日本の女性のためのメディア。私は女性のためのメディアが大好きだ。
23年前の『花椿』ではSOFIA COPPOLA/ACTRESSとなっている。——自分の着たい服をデザインして、仲間との楽しい瞬間を写真に撮る。「何かを表現したい」女の子が、次々に開いた可能性の扉——。インタビューの企画は私が出したけれど取材と本文はライターの松田広子さんにお願いしていた。引用したリード文章は私が書いた。1998年に映画を撮りはじめる前に、ソフィア・コッポラがどんな活動をしていたか、世間的にどうみなされていたか、が伝わると思う。ソフィア・コッポラからの読者へのメッセージ欄に彼女は「みんなどんどん外へ出て、やりたいことをやりましょうよ」と記している。興味にしたがって行動をおこしてみよう、という自発的で積極的なメッセージを発する「若い女性のロールモデル」、身近な憧れの対象としてのソフィア・コッポラ像が浮かび上がる。
88年に資生堂に入社して、すぐ『花椿』編集部に配属になったので、編集を覚えた時代が90年代だった。ワープロで原稿を書くのは良いことか、漢字を忘れてしまうのではないか。ファックスで原稿をやりとりしても良いものか、ご自宅にとりにあがらなくて著者の先生に失礼ではないのか。そんなことが真剣に議論されていた。
よく原稿を受け取らせていただいた池内紀先生は、ご指定の喫茶店がいくつかあって、そのどちらかにうかがうと、一時間ごとに編集者があらわれる。ふだんはひとりで執筆される先生は、原稿を受け取りにくる若い編集者と、毎月きっちり一時間ずつのおしゃべり(それは、原稿についてのものではなく、日頃の編集部の様子のうわさ話などだった)を、息抜きにされているようだった。長年執筆いただいている先生だったけれど、著者と媒体というものの関係が、そうした空気のような繋がりによって築かれているのだということを体験から学んでいった。
フリーになっていろいろな立場で仕事をしているけれど、時折昔の『花椿』を資料として見ることがある。私が一番よく開くのは、95年の『花椿』合本、一年分の花椿をとりまとめて綴じたものだ。ヒロミックス、長島有里枝さん、キム・ゴードン、マイク・ミルズ、清恵子さん、マルタン・マルジェラ、ライオット・ガールの雑誌『BUST』、ホンマタカシさんのリトアニア写真……。ジャック・ピアソンや吉本ばななさんもいる。ナン・ゴールディンとアラーキーの展覧会が資生堂ギャラリーで開催中だという告知が1月号の裏表紙にのっている(記事には<94年11月14日〜12月25日 荒木経惟+ナン・ゴールディン「TOKYO LOVE」 世界的に注目される2人の写真家のコラボレーションによる写真展。90年代の東京を捉えている>とある)。そういえばヒロミックスとは、この展覧会で彼女がアラーキーの被写体になったことをきっかけに出会って、いろいろなやりとりが始まったのだった。今の私にとっても興味の核となっているような人たちの話題が、毎月42ページの誌面からこぼれんばかりにあふれている。そんな印象だ。
この時代、95年という年はWindows95の発売年であり、地下鉄サリン事件や阪神大震災のあった年でもあることから、社会学的にも注目されており、95年をテーマにした展覧会もかつて、東京都現代美術館で企画されている。
このころ、この時代の『花椿』のまわりであった出会いについて、今と当時の出会いをとりまぜながら、書いて行きたい。そういえば先週X-girlの企画で来日したクロエ・セヴィニーに取材で会った。94年にキム・ゴードンが始めたこのブランドの意味について、またぐるぐると考えはじめている。