黒く艶のある長い髪。
それは平安時代において美人の条件とされていた。生まれてから一度も髪を切らずに何メートルも伸ばし続けて一生を終えることも珍しくなかったようだ。そのころのヘアケアは、大垂髪(おすべらかし・長く伸ばし垂らした髪)を櫛でとかしたり植物の液体をつけて艶を出したり、お米のとぎ汁を使用したりしていたという。このようにして私達日本女性は千年以上前から“髪”を大事に扱ってきた。
私は、自身の体を一部として文字を完成させる作品を制作している。特大筆を使い、等身大の文字を書いた紙の上に寝そべる。モニターを見ながら、文字の中で一番良い位置になるよう体勢を整える。そして、天井に設置したカメラでセルフ撮影をする。
その中で一番時間がかかるのが、“髪”。髪も身体の一部なので、これを最大限有効に使わない手はない。筆はご存知の通りさまざまな動物の毛からできている。この作品で使用する特大筆は馬の毛。長く伸ばした黒髪は、毛筆による墨の軌跡に見立てる絶好の素材であり、有機的な曲線美も大きな魅力となる。髪だけで文字の一画を表現することもあるので、私の中で“髪”は表現するための第二の筆として、とても重要な役割を果たしてくれている。この作品シリーズを制作し続けるかぎり、長く伸びた髪を切ることができないのである。
ハネの部分だから毛先をもう少しひろげようかな、トメの部分はまとめよう、顔にかかる髪はシュッとまっすぐにして、など、髪の向きや流れを細かく調整しながら、撮影を何度も繰り返す。百回以上撮影することもある。
そんなときに大活躍するのが資生堂のマシェリ。マシェリのジェルを髪に馴染ませて櫛でとかす。そうすると髪がしっとりしまとまりやすくなり、髪の一本一本に浸透し墨に近い黒さも出る。いろんな方向に髪を持っていってもからまるのを防いでくれて、撮影中は手櫛でも大丈夫なくらい。ジェルから仄かに良い香りがするのも制作中の癒しになる。
作品を書く前、精神を統一するため、目を閉じ呼吸を整え、瞑想をする時間を必ずとる。その前にする私の大事な儀式、それは、女文字である「仮名」(ひらがなの原形)が誕生した平安時代と変わらない、大垂髪を櫛でとかすことだったのだ。