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蓮沼執太の月一音一盤

2022.04.19

蓮沼執太の月一音一盤 今月の一枚、 Syd 『Broken Hearts Club』

文/蓮沼執太

 

今月のテーマ:前進

なんと明るいアートワークなんでしょうか。アメリカLAのソウル/R&Bバンド The Internetのメンバーとして知られるシンガー、Syd(シド)の5年ぶりのニューアルバム『BROKEN HEARTS CLUB』がリリースされました。夕暮れどきのような時間帯に、蔦でおおわれたようなゲートにはアルバムタイトル『Broken Hearts Club 』の文字、その前にSydが立ち、ゲートの奥には割れているハートが見えます。ここは「失恋クラブ」の入口でしょうか?でも、どこか日当たりがよくて明るい空気が流れています。

このアルバムでは、彼女のバンドで聴けるようなパーティーなグルーヴから少し距離を置いています。そのサウンドワークは現在のカリフォルニアの太陽の光を浴びた魅力的な音を感じさせます。彼女の静かな声は、心の底から響く太い振動から淡くキラキラと輝くファルセットまで、じっくりとアルバム一枚を通して楽しませてくれます。レイドバックの雰囲気をもった80年代のR&Bサウンドから、アコースティック楽器で奏でられたバラードまで、どの曲もとても心地よいです。

自身の失恋というネガティブに感じる経験から生まれたというこのアルバムは、不思議にどこか前向きな雰囲気を纏っています。その理由は、このサウンドや、彼女の経験が前を向いているものだったからでしょうか。この「前進」を感じる空気感こそが、今回のテーマです。ネガティブな出来事があったとしても、ポジティブにとらえていく。その繰り返しが人生になっていく。そんな気持ちをこのアルバムでは感じます。「初めて本当の意味で失恋をしたけど、それは友達も経験したことで、まるでクラブに通うことのような気分であり、通過儀礼みたいなもの」と語っています。

アルバム収録曲の中でも、オープニングを飾る「CYBAH」は特に印象的です。ニューオリンズのシンガー、Lucky Daye(ラッキー・デイ)を招いた楽曲は、エフェクトのかかった印象的なギターのカッティングがかっこよく、太くゆっくりとしたビートが合わさることで、乾いた音像が立ち上がります。MVも公開されていて、内容もどこかSFのような描写と展開がユニークです。「Fast Car」では小刻みに揺れるグルーヴが気持ちよくそのサウンドは疾走感や風を感じさせます。歌詞とサウンドから想像するその情景はとてもロマンティックで、彼女の中の自然な空気感が溢れ出ています。例えば、パートナーへの疑問や不信などを投げかけたような歌詞だったり、感傷的なムードがちりばめられているものの、経験でおった傷痕を音楽にして見せつけるのではなく、失恋を経たからこそ得られた魅力的な時間体験が豊かな音楽になっています。実体験から音楽をつくり上げることはあまりしない僕ですが、人生で起こるさまざまな経験がこのようにカラフルに響くことがとても素敵に感じます。春に合うサウンドワークでもあります。ぜひ聴いてみてください。

蓮沼執太

音楽家

1983年、東京都生まれ。音楽作品のリリース、蓮沼執太フィルを組織して国内外での コンサート公演をはじめ、映画、演劇、ダンス、音楽プロデュース などでの制作多数。近年では、作曲という手法をさまざまなメディアに応用し、映像、 サウンド、立体、インスタレーションを発表し、個展形式での展覧会やプロジェクトを活発に行っている。2014年にアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)、2017年に文化庁東アジア文化交流使として活動するなど、日本国外での活動を展開。主な個展に『Compositions』(ニューヨーク・Pioneer Works 2018)、『 ~ ing』(東京・資生堂ギャラリー 2018)など。最新アルバムに、蓮沼執太フィル『ANTHROPOCENE』(2018)。『 ~ ing』(東京・資生堂ギャラリー 2018)では、『平成30年度芸術選奨文部科学大臣新人賞』を受賞。
http://www.shutahasunuma.com/