夏が終わり、新しい季節が始まり、我々は新たな一歩を歩み出す時期を迎えています。
今月は、アイスランドの作曲家、チェリストのヒドゥル・グドナドッティルが手掛けたテレビドラマ『チェルノブイリ』のサウンド・トラックです。このアルバムはエミー賞、グラミー賞「映画・テレビサウンドトラック部門」を受賞しています。ムーム(múm)のメンバーとしても活躍されていることでも有名です。彼女の音楽『Mount A』というアルバムで出会いました。チェロを基調として、ガムランやツィター などの民族楽器の響きが淡く混じり合ったサウンドスケープが印象的でした。いま思えば、このアルバムも、どこか映像的な音楽/音響世界を体験できる作品でした。フィンランドの電子音楽グループPan Sonicにも参加していたり、いろいろなところで彼女の名前を見かけるようになりました。コンスタントなペースでオリジナル・アルバムのリリースもしていて、その独特な音の響きに魅了されます。そして、彼女が映画音楽 というフィールドで脚光を浴びるようになったのは、ヨハン・ヨハンソンとの出会いだと思います。彼はアイスランドの作曲家であり、2018年に若くして亡くなってしまったアーティストです。彼自身は音楽的教育を受けた上で作曲活動を展開していたというわけではなく、初期はパンク、エレクトロニカなど、さまざまな音楽ジャンルでの作曲を行い、近年はテレビや映画の音楽仕事が中心になっていました。今年リリースされた彼の未発表楽曲集『Gold Dust』もあわせて聴いてみてください。ヒドゥルは、そんなヨハンと共に映画音楽の仕事をして、チェロ演奏でも参加していきます。ヒットしたドラマ『トラップ 凍える死体』の音楽なども非常に聴き応えのあるサウンド・トラックです。そして、一番の有名になった作品は『ジョーカー』でしょう。ゴールデングローブ賞、アカデミー賞も受賞している作品です。脚本から音をつけていったプロセスも知られていますが、普段よりもはっきりした旋律の奥には、いつものヒドゥルの音響世界が広がっています。
さて、本作のドラマ『チェルノブイリ』は1986年、旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所での事故によって、ベラルーシ、ロシア、ウクライナ、スカンディナビアや西ヨーロッパにまで放射性物質が飛散し、人命が失われ続けてきた経緯を追っています。彼女はドラマのロケ場となった(いまは廃炉になっている)原子力発電所でフィールド・レコーディングを行いました。発電所の空間自体を楽器として捉えて、その音をサウンド・トラックに取り入れているそうです。実際にレコーディングされた音も聴いてみたいです。現実に起こったことのドラマであり、すぐに原因の究明できない不安定な世界を生きる。また未知なる事故に対して、国家と政府はどのように動いていたのか。明瞭に映らない灰色のような世界を見事に音楽で表現している傑作です。ここでは『ジョーカー』で聴けるような鮮やかで力強い旋律は影を潜めています。しかし、ゆっくりと変化していく静寂とも言える旋律の中に、微細な電子音、声(おそらくヒドゥルの声)、低周波の響き、ミニマルなフレーズの反復などが共振しています。全体的な音楽のテンポも遅く進んでいきます。情緒的な音楽表現ではないですが、じわじわと重くのしかかってくるような暗さとかなしみ、静けさを感じる音楽です。
季節の変わり目はいつもよりも身体的にも精神的にも力が要ります。そんなときに明るい音楽を聴いたからといって、気分も明るくなるわけでもありません。あまり調子が出ないときもあると思います。無理やり自分を鼓舞する必要もありません。じっくりと落ち着いて、自分を見つめる時間や休みも必要です。そういうときには今回紹介したヒドゥルの音楽だったり、アイスランドをはじめとする北欧の音楽をおすすめします。旅があまりできない時期だからこそ、海を渡った場所の音楽に耳を傾けてみるのもいいと思います。夏から秋へ季節が変わっていき、心身ともに健やかに穏やかに過ごしていきましょう。今月のテーマは「開放」です。新しい季節を楽しみましょう。