前編(記事はこちらから)では、不器用でコミュニケーションが苦手だった幼少期を振り返ってくださった尾崎亜美さん。ピアノ、そして尾崎さんの内面に潜む音楽の才能を見抜いてくれた先生との出会いを経て、中学〜高校と進学していくうちに、少しずつ交友関係も広がっていきました。後編はデビューのきっかけとなったコンテスト番組、故郷・京都を離れ東京に移り住んだ当時のエピソードから始まります。また、自分と同じように生きることへの辛さを感じている若い人達へのアドヴァイス、息長く音楽を続けていくためのライフスタイルにも触れています。
デヴィッド・ボウイなどの撮影で知られる世界的な写真家・鋤田正義さんの撮り下ろしポートレイトとともにお楽しみください。
KBS京都のコンテスト番組に出場
高校の軽音楽クラブで周りから誉めてもらえるようになって、吹っ切れたというか、KBS京都(当時、近畿放送)のコンテスト番組に応募したんです。合格すると3,000円分の商品券がもらえると聞いて。3人組の「エンプティ・ストリート」というバンドで出場して、私は歌とギターを担当しました。無事に合格して、次は週間チャンピオン大会、さらには年間チャンピオン大会と勝ち進んでいったんです。それはそれで、嬉しかったのですが、なぜか審査員の方が私ばかり誉めるんですよ。だから他の2人のメンバーがやる気をなくしてしまって、勝ち進む度にメンバーが抜けていくという(笑)。さすがに私も申し訳なくなって、年間チャンピオン大会では「辞退します」と言いました。会場にも全く準備をせず長靴とコート姿で行って。 でも、「絶対出てほしい」と言われて……本当に申し訳ない気持ちで出場しました。結局、ちゃんとしたブルーグラスを演奏したバンドが1位になり、私は2位に。「けったいな声やな」と笑われていた頃からすると、ずいぶん出世しましたよね(笑)、これがきっかけでスカウトの方から声をかけていただくようになり、そのうちのひとつがデビューしたレコード会社、東芝(EMI)さんだったんですね。
プロになりたいとは全く思っていなかったんです。ただ、漠然と思っていたのは、私が生きていく上で音楽のない生活はあり得ないということでした。アマチュアでできる音楽よりも、プロになってからの世界のほうが大きいだろうし、もっと深いところへ、もっと広いところへ行けるかもしれないという気持ちが膨らんできて、ごく自然にプロへの道を歩むことができたし、何より強烈にラッキーだったと思います。
デビューして入院、上京して補導
デビューした後もしばらく京都に住んでいました。ラジオの『オールナイトニッポン』の2部を担当させていただくようになったのですが、東京の生放送のスタジオに通っていたんです。そうこうしているうちに身体をこわしまして、私はデビューして7〜8年のあいだに8回入院したんです。「マイ・ピュア・レディ」を資生堂さんのCMに使っていただいて、出演している小林麻美さんがすごくかわいかったんですけれど、CMを通して私の曲が世の中にバーッと出ていたとき、私は京都の病院で入院中でした。40日くらい入院しましたね。
身体の疲れだけではなくて、精神的にも自分をコントロールできなくなっていたんでしょうね。深夜に及ぶレコーディングがあっても、車の中でも眠れないし、不器用なところが一気にドカンと出てしまったんです。それでやっぱり通いは無理だとなって上京するんですけど、一人暮らしの東京、大丈夫かとみんなに心配してもらって、案の定、また入院。母の若い友人の方と一緒に暮らすということで、なんとか再スタートを切って、だんだん倒れる回数が減ってきました。
東京に来たら来たで、それはそれでとても素敵な街でしたね。そういえば私、補導されたことがあるんですよ(笑)。東京に来て最初に住んだのが、なぜか六本木だったんですよ。お仕事から帰って、ちょっと近所を見て回ろうと思って、高いビルを見上げていたんですね。京都って高い建物が少ないので、珍しくて。ボヤーンと見ていたら、「はい、はい」と、おまわりさんに声をかけられて(笑)。「どこから来たのかな〜?」と聞かれて、「京都……あ、いえいえ、今はこの近所に住んでいます」と答えたのですが、どう考えてもものすごく怪しいですよね。私は18歳でレコーディングして、19歳の誕生日の次の日にデビューしているんです。「マイ・ピュア・レディ」が出たのが、19歳の終わり。東京に出てきたときは20歳になっていたと思いますが、東京の女の子に比べれば幼く見えたでしょうし。それで「はい、ちょっと交番でお話ししましょうか」と言われて補導されました(笑)。それでマネージャーさんに電話をかけて、いろいろ説明をしてから、ようやく帰ることができたんです。
壁はよじ登るより迂回する
デビューから今まで、ずっと歌い続けられてきたのは、どんな時でも自分なりに楽しめる要素を見つけてきたからだと思います。というか、楽しくなかったら、急激にがんばるのが嫌になっちゃうんですよね。楽しむ要素を見つけるための努力は、あまり苦じゃないです。だから現在もコロナの問題で、皆さん本当に辛いと思いますけれど、このコロナ禍でも生きるということの中に、私は何か楽しみを見つけることができていると思います。
壁にぶつかったとき、その壁をなんとかよじ登ろうとする人は、カッコいいーと思うんですけど、私は迂回しようと思うタイプなので(笑)。「壁、登れないし」と思ったら、違うことを考えます。「そもそもこの壁は、登るべきなのか」と考えて、登るべきだと思ったら登るけど、穴開けてやれとか、ちょっと迂回してやれとか、そういうふうに考えないと続けられないと思うんです。音楽でもなんでも、何かを長く続けるためには。
持っていない不幸より、持っているものを活かす幸福
自分が何かを持っていないことを「不幸だ」と考えるよりは、持っているものを活かして自分が笑うこと、人に喜んでもらうことのほうが私には向いていると思います。日本はわりと「欠点をなくしていきましょう。平均点に持っていきましょう」という考えで、教育がなされていることが多いですよね。私なんか欠点だらけで、長所がすごく少なかったけれど、そこを誉めて育ててくださる方がいたからこそ、自分の可能性を広げることができたと思います。こんなハスキーな声でも、私の歌を聴いて笑ってくれる人がいる。あるいは悲しみに寄り添って、ふっと涙を流して楽になったりする人もいる。そのために私の音楽が存在しているのなら、なんていい職業を選んだんでしょう、と思うんですよね。
自殺を考えているような若い人もいると思います。自分が悲しいかどうかすら分からない状態で、亡くなっちゃう方もいる。「もし、あのとき死んでいたら、こんな楽しいことは経験できなかったな」と私は思うんですよね。子どものときに、あまりにも死にたいと思うときが多かったから、余計に。今は大人になって、だいぶ朗らかになった私が、若い人に「生きていると絶対に面白いこともあるよ」と伝えられたら、すごく嬉しいですね。
家事はクリエイティヴ、料理はコンサート
声が出るかどうか分かりませんが、おばあさんになっても音楽を続けていきたい。以前キャロル・キングのコンサートを観たら、「声もこんなになっちゃって」みたいな曲を歌うんですよ(笑)。「だって私、何歳なんだもん」って。確かにだいぶ声が出ていなかったですが、そんな曲を歌うときこそ、「私は音楽が好きだ」というオーラがボンッと出るんです。それで私も涙が出るくらい幸せになれたんです。
やっぱり私にとっては、音楽のある人生がとても大事なんですね。長く続けていくためには体調管理にも気をつけています。いつも(夫でミュージシャンの)小原(礼)さんともよく話し合っていて、ライブ前は絶対お酒を飲まないようにしています。1日前、2日前じゃなくて、3日前くらいから飲まない。実は私、ワインの名誉ソムリエをいただいて、あんなに素敵な音楽の時間のためですから、しょうがないですよね。
あとは散歩をすること。そして、よく眠ること。実はあまり眠るのが得意じゃないのですが。食べるものに関しても、なるべく健康的なものをいただきたいと思っているので、添加物とかはデリケートに考えています。それと手づくりのものを、なるべくたくさん使う。簡単にできるものですけれどヨーグルトとかは自分でつくるし、カレーも市販のルーは使いません。家事はなんでもクリエイティヴですよね。特に料理は音楽とすごく似ているし、お客さんを招いておもてなしをするのはコンサートとそっくりだと思います。どういう食材を使って、どの順番で出してと考えるのは、ライブのセットリストを考えるのと同じです。オリジナルの料理をつくるのは、曲づくりのようですし、いろいろなことが一致します。だから私は料理が好きなんでしょうね。