前編(記事はこちらから)では、YOUさんの多面性溢れる少女期が明らかになりました。「図書館に引きこもる優等生」と「朝練を欠かさない体育会系少女」と「新宿や原宿で遊ぶ陸サーファー」。この3つの顔が年齢ごとに入れ替わるかと思えば、すべてが同時進行していた時期もある――後編では、このYOUさんの不思議な魅力が、いよいよステージやスタジオで花開くプロセスを語っていただきます。伝説の演劇ユニットであるラジカル・ガジベリビンバ・システムの舞台、バンドでのデビュー、ダウンタウンのバラエティ番組出演へと至るストーリー。また、自身の仕事やプライベートに対する考え方にも触れていただきました。
デヴィッド・ボウイなどの撮影で知られる世界的な写真家・鋤田正義さんによる、ロンドンの街角をYOUさんが満喫しているようなポートレイトと併せてお楽しみください。
ラジカル・ガジベリビンバ・システムで一度死ぬ
モデルを始めて1年半から2年くらい経ったとき、舞台に出演する話が来たんです。20歳か21歳くらいだったかな。脚本上、若い女の子が3人必要だということで事務所に声がかかり、適当に選ばれたんです。私も深く考えずにホイホイ現場に行ってみたら、それがラジカル(ラジカル・ガジベリビンバ・システム=宮沢章夫の作・演出、シティボーイズ、中村ゆうじ、いとうせいこう、竹中直人などが参加していた演劇ユニット)でした。女の子が3人たまたま集められて、急にボンッと投げ込まれたら、すごい人たちが揃っていたわけです。そんななかで怒られながらもがんばってみましたけれど、当時のラジカルのファンからすれば、いらないわけですよ、私みたいな女子は。お芝居って、お客さんから終演後にアンケートをとるじゃないですか。おそらく回答のうち9割が「あいつは邪魔だ」とか、そんな感じだったと思います(笑)。私なんかひとり娘でぬくぬく育てられて、「カワイイ」とかなんとか言われることもあった約20年間の人生で、初めて洗礼を受けたようなものです。一度死んだような気分になって、そこから大人になりました。大人デビューですね。
クラブ通いでワーオ!の連続
実は私、ラジカルに出演した翌年に野田秀樹さんの夢の遊眠社にも出ているんです。素人を舞台で使うことになったらしく、青山劇場が出演者を一般公募して、私は事務所から「とにかくオーディションに行け! 」みたいに言われて。夢の遊眠社に憧れている役者志望の子たちがたくさんいるなかで、私は何も知らないまま参加している状態でした。JAC(ジャパン アクション クラブ/現ジャパン アクション エンタープライズ)の若い男の子を含め、十数人が選ばれたのですが、私はたぶん大人の力で合格したんだと思います(笑)。今思うと、1年のあいだにラジカルに出て、遊眠社にも出たなんて、もうメチャクチャじゃないですか、演劇界的には。私はそういうことを全然考えていなかったんです。ラジカルのメンバーからすると「お前、何をやっているの?」という感じですよね、きっと。
ラジカルのメンバーには本当にお世話になりました。文化的なことで、ずいぶん刺激を受けましたね。せいこうさんがきっかけでRUN DMCを知り、せいこうさんのラップも聴いてカルチャーショックを受けたり。クラブにも行くようになって、ちょうどロンドンから帰ってきていたサディスティック・ミカ・バンドのミカさんにお会いしたり。シュガー・ベイブ関連の日本のミュージシャンにも出会っちゃうし。毎晩のようにインクスティックとか、六本木や西麻布界隈のクラブで遊んでいました。クラブという遊び場を通して、ちょっと大人の文化を知るようになった感じですね。大人って言っても、今考えるとクラブに集まっていた皆さんは、20代後半とか30代なんですけれど。(桑原)茂一さんやケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)さんともつながって、20歳から3年間くらいは、もうワーオ! ワーオ!の連続で(笑)。もう楽しくてしょうがないみたいな。
FAIRCHILD参加、不良マインドでステージに立つ
FAIRCHILDはラジカルの舞台を観にきていた後のリーダーから、「女の子ヴォーカルのバンドを組みたいから、歌をやらない? 声が変わっていて、面白いね」と声をかけられて始まったんです。FAIRCHILD の前に、ニューミュージックみたいな曲を歌うソロ歌手をやっていた時期があるんですが、洋楽は引き続き聴いていても自分で音楽をやりたいという意識は全然なかったので、なんとなく歌っていただけでした。だから声をかけられたときも「え、歌? いいよー」みたいな気持ちしかなく、適当な感じで始めてしまって。でも、ライブで歌って、喜んでくれる人がいたりするとやっぱりうれしいし、詞も書いていたのでそれなりにやり甲斐はありました。まあ、少なかったですけどファンの方もいらしたので、学生時代からのスポーツ根性というか、不良マインドが出てきて、ステージに立つ以上は闘わなくてはいけないという気持ちになったんじゃないですかね。すごく自分が歌いたいと思った曲ではなかったにせよ、リーダーが私の声を使って具現化したい世界があって、それはある程度できていたと思いますし、楽しんでやってはいたと思います。詞を書く上では、よく本を読んでいた頃に高村光太郎にハマっていた経験が役に立ちましたし、ピアノやバレエを習っていたことも活かせましたしね。当時はバンドブームでもあったので、休む間もなくプロモーション、CDリリース、ライブの繰り返しでしたから、後半はやや流れ作業になってしまったとは思います。
解散してから出した2枚のソロアルバムをつくったときは、楽しかったんですよ(笑)。バンドやっていた5年くらいのあいだに溜まった「ああ、こういう曲をやりたかったんだよなあ」という鬱憤を晴らせたというか。FAIRCHILDのポップさとは違う、レッチリ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)やシンディ・ローパー、HIP-HOPなんかも私は聴いていたわけですから。
大反対されたダウンタウン『ごっつ』への出演
ダウンタウンさんの番組(フジテレビ系『ダウンタウンのごっつええ感じ』)に出始めた当時は、まだFAIRCHILDをやっていましたね。話をいただいたとき、一応バンドのヴォーカルのイメージがあるので、当時の事務所からは大反対されました。ラジカルの舞台に立って、東京のサブカルチャーのトップの方々に育てていただいた私が、関西のダウンタウンの番組に出るわけですし。でも、私はあんまりそういうことを考えないんですよ。単純に「ダウンタウン、面白いなあ。番組、出たいなあ」と思っちゃったんです。なんとかなるかどうかは、あくまで勘でしかないんですが、一度「出たい」と考えてしまうと頑固になるんです。仕事でも遊びでも、不良でもテニスでも、やりたいと思ったことに対する欲はすごいんですよ。
実際に番組が始まったら、厳しさもある現場でしたけどね。でも、最終的には本当に楽しくなっていきました。出演していた当時は、忙しいけれど楽しくてしょうがない毎日でしたね。この番組から学んだこともたくさんありました。
目標はない。でも、やることはやる
若い頃からお仕事をさせていただいているので、健康管理にはなんとなくですが気をつけるようになりました。体調を崩す兆候に敏感だったり、舞台をやらせていただくこともあるので、筋力をつけるためにジムに行ったり。自分に何かあると迷惑をかけることが分かっているので、基本中の基本くらいはちゃんとやろうかなと思っています。身体のケアが本気で面倒くさくなったら、お仕事は受けられなくなってしまうかもしれない。だからといって、自分から「辞めます」とは言わないと思いますが(笑)。結婚しても、離婚しても、何も言わずに仕事は続けてきたので、このままズルズル行くんだろうな、どこまでズルズル行くのかなという感じですね。
芸能の世界を目指す若い人は、芸人になりたい、バンドがやりたいと目標をもって東京に出てくるんだと思うんです。でも、私は若い頃から具体的な目標がなかった。目指す場所も分からずに、まわり皆さんに誘っていただいて、それに乗らせていただいただけの繰り返しでした。何も期待していないし、結果もまったく重視していない。だから全部ラッキーなんですよ。
ただし、与えていただいたことに対しては、スポーツ根性、不良マインドでやり切ってきたとは思います。現場、現場で、覚えたり学んだりしながら、ちょっと面倒くさい負担も心地よく感じるようになりたいという気持ちはありました。そうすると楽しくなってくるんですよね。仕事以外にも美術館へ行ったり、映画やバレエを観たり、クラシックを聴いたり。韓国ドラマなんかも、あえて観ないようにしていたところがあるんですが、素晴らしい作品がいっぱいあることを知って、皆さんよりだいぶ遅れてハマっちゃいましたね。オタクじゃないんですけれど、ハマると集中して一気に観るので、睡眠不足になっちゃうんです。いまは難しくなっていますがライブにも行きたいし、旅行もしたい。これからも楽しくやっていきたいですね。