音楽や映画、演劇などの世界で息長く活躍し続ける女性たちが、初めて自分の好きな文化を知った瞬間を語ります。未知の作品に出会い、日々の生活が大きく変わっていった実感。未来への扉が開かれ、一気に可能性が広がっていった体験。彼女たちのイノベーションには、あなたのワナ・ビー=自分はこうなりたいと願う理想像を実現させるためのヒントが溢れています。
第6回のゲストは、小泉今日子さんです。小泉さんは、昭和風の言い方をすれば、誰もが知る「大スター」です。本来、エンタテインメントのメインストリームに位置する存在ですが、彼女の魅力はそんな場所から少しずつハミ出していくところにもあります。「アイドル」として多くの人びとに愛される作品を発表しながら、自らの作品に新しい音楽を取り入れ、キャリアもさまざまなクリエイターと共演する。未知の面白いことに出会うのが大好きで、その体験を伝える力を活かして音楽や映像、本などを広く世の中に紹介する。小泉今日子がいることによって、お茶の間がサブカルチャーやアンダーグラウンドとつながる——そんな独自の在り方を続けてきました。2015年に「株式会社明後日」を設立してからは、その活動がよりきめ細かくなりましたが、彼女自身は少女時代にどんな音楽に触れ、表現をする側へと歩みを進めてきたのでしょうか。
デヴィッド・ボウイ、T. REX、YMOなどのミュージシャンを撮影し続け、今もなお世界各国で写真集が出版され、個展も開催されている写真家・鋤田正義さんの撮り下ろしポートレイトと共に、小泉今日子さんの言葉を味わっていただければと思います。今回は鋤田さんの「こんな時期なので、少しでも皆さんに海外にいるような気分を感じてもらいたい」という発案で、これまで撮りためてきた世界の街角のスナップ・ショットに、小泉さんが迷い込んだような特別ヴァージョンでお届けします。
家庭と学校の「文化ミックス」
私、5人家族で3人姉妹の末っ子なんですね。生まれたときには、すでに家の中にいろいろなものが揃っていたんです。家族それぞれが触れてきた文化的なものが。音楽で言えば、母が運転する車で荒木一郎さんの曲がカセットテープでかかっていたり。長女は私より8歳上で、ジョン・レノンとかフォーク・ソングに影響を受けた世代なので、日本のフォークのアルバムを聴いていたり。2歳違いの姉は洋楽世代で、ベイ・シティ・ローラーズから始まってチープ・トリックやジャパンが好きで、日本のロックも聴いていましたね。叔父さんの家にあったレコード・プレーヤーの置き場所がなくなっちゃって、しばらく預かっていた時期があったのですが、一緒に預かったレコードの中からジャズを聴いてみたりもしていました。音楽以外の本とかもそうですけど、私自身が選ぶ前に、それぞれの世代の文化を知る機会が家庭内にあったんです。
学校に行けばまた違う文化がありました。当時だったら日本の歌謡曲、特にアイドル文化ですよね。ピンク・レディーやキャンディーズ。中三トリオ(森昌子、桜田淳子、山口百恵)や新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ)の歌謡曲で友だちはみんな盛り上がっていました。姉には「中学に入ってまだ歌謡曲を聴いていたらバカにされるよ」と言われていましたけれど(笑)。だから自分の同級生たちと分かち合える話題と、家の中で知っていく文化の 二つが、すごくミックスされている感じでしたね。
歌謡曲の全盛期、『ぎんざNOW!』で聴いた洋楽
時代的にも歌謡曲は全盛期だし、洋楽も普通に流れていましたしね。テレビでも『ベストヒットUSA』とか『ぎんざNOW!』なんて、洋楽を紹介する番組があって。『ぎんざNOW!』は特に印象に残っているのですが、東京ローカルの放送だったので、関東地方の人しか知らないんですよ。曜日ごとにテーマが違っていて、アイドルが歌う日もあれば、お笑いの日もある。木曜日が洋楽の日(「ポップティーンPOPS」)で、ビージーズの『サタデー・ナイト・フィーバー』が流れていて、クイーンやキッスはもちろん、エアロスミス、チープ・トリックもチャートに入っていました。それと中2、中3の頃は、ディスコ・ブームだったんですよ。放課後に友だちの家に集まって、聴いていた音楽はアラベスクとかディスコ系の曲も多かったです。
もちろん『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』も観るのを楽しみにしていました。それと向田邦子さんや倉本聰さん、山田太一さんらの脚本、久世光彦さん演出のドラマも。そういえばTBSで『グッドバイ・ママ』(1976年)というドラマをやっていて、主題歌がジャニス・イアンの『ラヴ・イズ・ブラインド(恋は盲目)』だったんですよ。それでレコードを買ったことを憶えています。小中学生の頃はそんな感じで、なんか記憶がバラバラなんですが、私は10代の頃、高校時代から仕事をしているので、「学生時代の思い出」がはっきりしているわけではないんです。話しているとだんだん思い出すんですが(笑)。
「やべぇ、受かっちゃった」オーディション
デビューのきっかけは……「きっかけ」という程の大きな転機ではないんですよ。オーディションにも遊びに行ったようなものでしたから。東京は隣の街という感覚だし、普通に買い物へ出かける場所だったので、オーディションで東京に行くのも大げさなことではなかったんですね。テレビ番組の『スター誕生!』やホリプロのスカウトキャラバンとかいろいろありましたが、学校へ応募のハガキを持ってきて、「みんなで出そうよ」みたいなノリでした。もちろん興味はあったし、歌も大好きだったから、「じゃあ、私も応募しようかな」と。
中3くらいのときに日本テレビに『スター誕生!』に応募のハガキを出したら、オーディションを知らせるハガキが返ってきて、姉から「いつ?」と聞かれたんです。私が「今度の日曜日」と答えると、「私、ちょっと買い物もあるから、連れて行ってあげる」と言われて。原宿とか、行ったことある場所だったら1人でも行けたかもしれないけれど、「どここれ? 市ヶ谷?」とか言ってたんですよ、私。それで姉が一緒に行ってくれることになって、なんか途中で姉が「この辺りを歩いていても、店もなんにもないし、靴擦れしたから帰るわ」と言い出して、「嘘でしょ。私、帰りはどうすればいいの?」みたいな感じで、そっちのほうが大事件だと思ったことを憶えています(笑)。とにかくまったく緊張もしていなくて、「早く終わればいいのに……」と思っていたら、どんどん受かっちゃったというか。
いよいよテレビに出ることになったときも、どうせ受からないと思っていたから、親にもちゃんと説明していませんでした。むしろ「親のいる前で歌ったりできないよ。そっちのほうが恥ずかしい」と思っていましたから。会場で「親御さんは?」と聞かれて「え? 1人で来ましたけど」という感じで。「普通はみんな親御さんと来るんだよ」と言われましたから、「変わっているなあ、この子」と思われていたと思います。
歌のオーディションでも、最後まで歌えなかったんです。前の日にドリフターズの番組で石野真子さんが歌っていた曲(「彼が初恋」)を、カセットで録音して覚えていったんですけれど、いわゆるテレビ・サイズだったんです。だから大サビの後はカットされていて、フル・コーラスでは覚えていなかった。それで「もしかしてこの歌、最後まで知らないの?」と聞かれて、「知らないです」って答えたら、「ひでぇ子が来たな」と言われました(笑)。
最終的に合格したときも、「やべぇ、受かっちゃった」と思っていました(笑)。ただただ社会見学的な興味で受けただけで、ひっそり終わらせて、笑い話にしたかっただけなのに。自分がデビューできるとは思っていなかったし、まったく準備もしていない。本当に「ああ、歌手になろう」と思ったのは、デビューして1年くらい経ってからです(笑)。
「まっ赤な女の子」で生まれた新しい女の子像
デビューしてからも、流されるままここに立っちゃったけど、私にはその資格がないというか、みんな本気でがんばっているのに申し訳ないな、という気持ちが強かったですね。「なんでピンクの服を着ているんだっけ、私?」みたいな思いもありましたし。でも、それは誰かに強要されたわけじゃなくて、自分自身がなんとなく「こんなもんなのかな」と思って、それらしく振る舞っていただけなんですが、結局「やっぱり違うな」と思い始めました。それで、もうやめようとも考えて……でも、ただやめるにしても、素のままでやりたいことを1回やって、地元に帰ったほうがいいなと考えたんですよね。ヒラヒラした服を着たままやめて、厚木に帰ってからグレるというのも、あんまりよくないなと思って(笑)。どうせなら先に芸能界でグレてから、地元の友だちに「まあ、よくやったよ」「がんばったよ」と言われながら帰りたいというか(笑)。
それで好きなものを着たり、自由に発言をし始めたら、なんか人気が出てきたなという感じでした。まわりの大人たちもそんな私を面白がってくれたんですよね。
それが「まっ赤な女の子」(83年)のタイミングだったんです。レコード会社のディレクターが田村(充義)さんという方に代わったのですが、彼が一番私の音楽面を育ててくれたと思います。歌のテイクとかも、半笑いのテイクをあえて使うとか、ピッチはちょっと悪いけど、勢いがあるところとかセレクトしてつくってくれて、それをもとに「ライヴではこうやって歌えばいいのかな」と私もだんだん分かってきた。歌詞のコンセプトも「今までのアイドルでは存在しなかった新しいタイプの女の子像をつくれたらいいな」と思うようになりました。それを最初にディレクターが理解してくれて、「じゃあ、こんな歌詞は? 主人公はなんでもアリの女の子にしよう」と一緒に考えてくれて、キャッチーな曲が生まれていったという感じでしたね。それが定着したら、「今度はミディアム・テンポのせつない曲もいいよね。声にも合っていると思う」と「夜明けのMEW」(86年)みたいな曲をプロデュースしてくれたんです。その後も「アルバムをつくるけど、半分自分でプロデュースしてみない? 好きなアーティストとか、こういう組み合わせとか、ちょっと考えてごらん」みたいな感じで進めてくれて。そういうやり方が同世代の子たちの感覚とマッチしたんでしょうね。