前編(記事はこちらから)では、小学5年生の時点で「ピアノを楽譜どおりに正確に弾くのではなく、感じたまま自由に弾きたい」という明確な意志を持った矢野顕子さんが、ジャズを中心にロックやポップスを「たくさん聴いて、とにかく弾く」日々を送る様子が語られました。ご両親の後押しもあって、中学時代からは人前で演奏する機会も訪れますが、後編からは東京に舞台を移し、高校に通いながら、本格的にプロ・ミュージシャン、プレイヤーへの道を歩み始めることになります。その早熟な才能、階段をかけ上がるスピードの速さに驚きつつ、矢野さんの学生時代は着実に自分の夢を実現させていく道程でもあったことに気づかされると思います。また、インタビューの最後では、最近の音楽活動に対する心境の変化にも触れています。
デヴィッド・ボウイなどの撮影で知られる世界的な写真家・鋤田正義さんの撮り下ろしポートレイトと共にお楽しみください。
ジャズをやるために青学軽音楽部へ
音楽の道に進むことはすでに決めていましたので、高校も音楽のために行く。小学生の頃から、私自身そう考えていましたし、父も母も当然のように思っていました。それでどこを受験するか調べてみたんですが、その当時、高校生でジャズができるというのは、東京の青山学院しかなかったんですね。青学の高等部の軽音楽部のことを、どこかで記事を見て、これだと思って受験のために勉強しました。祖父と祖母が東京にいたので、そこに住んで通えばいいと。
確か入学したつぎの日にもう音楽室を訪ねて、軽音学部に「入れてくださーい」とお願いしたんですよ。「何が弾けるの?」みたいに聞かれて、ピアノを弾いてみせて、数ヶ月後には中心メンバーのようになっていましたね。
当時の軽音学部は3年生の部員がジャズを中心にやっていたので、3年生にかわいがられたんですよ。「骨のある子が入ってきた」みたいに。ところが2年生は、ジャズではなくてロックな感じ。ジャズ・ロックでもなく、いわゆる普通のロックで、私は内心「なんて軟弱なんだろう……」と思っていました(笑)。
銀座ヤマハを拠点にした高校生のジャズ交流
そうこうしているうちに、3年生の紹介で学校以外にも交流が広がっていくようになるんです。銀座のヤマハに高校生が集まるジャズのクラブ(サブタレニアンクラブ)があって、学校が終わってそこに行くと、楽器を自由に使わせてくれる。音楽スタジオもあって、いつでもセッションができる。まだいろいろなことがユルい時代だったので、売場から楽器を借りることもできました。もともとは、おそらくジャズ・ドラマーの猪俣猛さんがやっていたドラム・スクールが始まりだと思うのですが、その後プロのサックス奏者となる本多俊之くんがいたり、同年代の仲間が一気に増えて、とても楽しい場でしたね。
時代的にも新しい音楽が登場したタイミングだったので楽しかったですね。マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』とか、それまでの4ビートのジャズと違って、8ビートや16ビートのジャズ・ロックみたいなものも出てきて、様々な音楽を聴く、そして弾くチャンスがありました。ロックの中にも、ブラッド・スウェット&ティアーズやシカゴなど、ジャズと共通点があるバンドがいましたが、しばらくするとジャズのコードを使うスティーリー・ダンが出てきて、私もレパートリーにしていました。
初めて歌を歌った青山ロブロイ
高校2年になると、今度は「あそこの店でピアノを弾かない?」と声をかけられたりして、学校へ行っている暇がなくなっちゃったんです。ついにはもう学校へ行くのは、軽音楽部に顔を出すためだけになって、登校は放課後。学校で演奏をして、夜またどこかのお店に弾きに行くという生活をしていました。
お店で最初に演奏したのは、四谷の駅の近くにあったレストランだったと思います。エレクトリック・ピアノが置いてあって、夜6時くらいから閉店の11時まで弾いていました。ピアノの演奏でバンドとのセッション。学祭とかも行きましたね。
歌を歌ったのは青山のロブロイというお店に出るようになってからです。最初に歌ったのはエルトン・ジョンの「ユア・ソング(君の歌は僕の歌)」だったと思います。それがなぜかすごく受けて、ロブロイのママが、「新宿の厚生年金会館を押さえろ!」とか、とんでもないことを言い出したりしていました(笑)。
そのうち自分のバンド(ザリバ)ができて、ディスコやクラブ、アメリカ空軍の基地でも演奏するようになりました。ザリバが赤坂のクラブで演奏しているときに、お客さんでトリオレコード関連の人が来ていて、「ソロでレコードを出しませんか」と声をかけられたんです。それでデモテープをつくったんですが、ちょうど『摩天楼のヒロイン』(南佳孝/トリオレコード傘下のレーベル、ショーボートからリリース)が出たタイミングだったので、バックは同じ後のティン・パン・アレーのメンバーが中心でした。でも、結局は契約に至らず、そのうちザリバも解散して、私はスタジオ・ミュージシャンも始めるんです。デビューするまでいろいろな仕事をして、ずいぶん勉強になりましたね。当時はとにかくプレイヤーとして経験を積んで、どうしたらもっと上手くなるだろうかということしか考えていませんでした。
私のための音楽か、聴いてくれるための音楽か
ジャズをやっていた頃は自分の演奏のことしか考えていませんでしたし、デビューしてからも自分が弾きたい音楽、自分が聴きたい曲をつくることが中心でした。それで巨万の富を築けるわけがなく、本来ヒット曲は皆さんが欲しているコード進行、メロディ、詞で成り立っているのですが、私は本当にそういったマーケティング的なところから一番遠い場所にいたんです。それでも私の音楽を愛してくれる人々がいてくださったからこそ、なんとか長く音楽を続けてこられたんです。
でも、そんな自分にかなり前から飽きてきている気持ちもありまして、去年の「さとがえるコンサート」なんか、まあ、ほとんど皆さんが聴きたいと思っている曲目だけだったんですよ。20年前の私だったらあり得なかった。その日、自分がやりたい曲をやる、が基本姿勢だったのが、今は「皆さんが聴きたい曲はなんだろう」と考えるんです。今の私にはそれが全然無理なことではないし、自然にそんな気持ちになれて良かったなと思っています。
好きなことを続けるためのコンディション
気持ちだけではなくて、年を重ねてくると身体的なコンディションの変化も大きいですね。だいたい朝起きて、どこが痛いとか、どこがかゆいとかがあるので。そういうことだけを意識していると、「ああ、今日は動きたくないわ」で1日終わっちゃうわけですよ。年を重ねたなりに、ちゃんとできることを維持していくためには、食生活や定期的な運動も大事ですし、感情的にもいい状態に保つことが必要になります。私は音楽家ですから、音楽をいつもつくれる状態にしておく。まず指が動くように、ピアノの練習はしなくちゃいけないし、曲をつくる動機もなければいけない。その状態を保つためには、私の場合、自分のことだけ考えているとダメなんです。だから自分のためだけに曲を作るわけではないという気持ちが重要になってくるんです。
今、今年に出るアルバムをつくっているんですけれども、自分のためだけではない、皆さんに喜んでいただける良い曲ばかりになっています(笑)。
記憶の記録LIBRARY
「やのとあがつま (矢野顕子&上妻宏光)Tour 2021 - Asteroid and Butterfly -」
■2021年5月4日(火・祝)秋田・由利本荘市文化交流館カダーレ
15:15開場/16:00開演
■2021年5月6日(木)大阪・住友生命いずみホール
18:15開場/19:00開演
■2021年5月8日(土)鳥取・米子市公会堂
14:15開場/15:00開演
■2021年5月21日(金)東京・東京文化会館 大ホール
18:00開場/19:00開演