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GIRLS ROCK BEGINNINGS

2021.03.19

GIRLS ROCK BEGINNINGS VOL.05 矢野顕子[前編]

撮影/鋤田正義

取材/山中聡、君塚太 文/君塚太

ヘアメイク/岩尾清司

日本を代表する女性ミュージシャン達が、初めて音楽に触れた瞬間を語ります。未知の文化と出会い、日々の生活が大きく変わっていった実感。未来への扉が開かれ、一気にキャリアが広がっていった体験。彼女達のイノベーションには、あなたのワナ・ビー=自分はこうなりたいと願う理想像を実現させるためのヒントが溢れています。
 第5回のゲストは矢野顕子さんです。ミュージシャンの中には、幼い頃から確かな音楽の才能を発揮していた方が多くいると思いますが、矢野さんは「特別」だったと言っていいでしょう。東京で生まれ、青森に移った3歳から音楽の専門教育を受け始めましたが、小学校の高学年になると「自分は何をやりたいのか、ピアノで何を弾きたいのか」をはっきりと見定め、独自の道を進みます。おそらく当時の矢野さんには、その年ごろとしては突出した演奏技術と音楽に対する感覚が備わっていたのだと思いますが、特筆すべきはその意志の強さ。ジャズからEDM、日本の伝統音楽まで、多様なジャンルの音楽を奏でても、どんなアーティストと共演しても、自身の個性が揺るがない現在の矢野さんの姿が、すでに少女の頃から感じられます。
 ニューヨーク在住で日本での滞在期間が短いところ、貴重な時間を割いていただいたインタビュー。「昔のことはほとんど憶えていなくて……」と呟きながら、「意志と個性」を育んできたヒストリーを語ってくださいました。
 デヴィッド・ボウイ、T. REX、YMOなどのミュージシャンを撮影し続け、今もなお世界各国で写真集が出版され、個展も開催されている写真家・鋤田正義さんの撮り下ろしポートレイトとともに、矢野顕子さんの言葉を味わっていただければと思います。

3歳から受け始めた音楽の専門教育

 3歳のときに母に連れられて、青森市にあった青森明の星短期大学付属の音楽教育研究所というところに入りました。音楽に触れ始めたのは、そこからです。実際にピアノを弾くようになったのは、しばらく後になってからだったような気がしますけれど、リトミック(音楽と触れ合いながら、子供の潜在的な才能を引き出す教育手法)みたいなものは、その研究所で初めて受けたと思います。
 当時のことはほとんど憶えていないんです。週に2~3回は通っていたとしても、どうやってその場所まで行っていたのか……幼稚園がすぐ近くだったので、その後に行っていたのかもしれません。小学校に上がってからは、バスに乗って通っていました。でも、音楽について何かをしたり、ピアノを弾いたりするのを、嫌だと思ったことは一度もありませんでした。それははっきり憶えています。
 私にピアノの才能があるとか、ないとか、母親が考えていたわけではないと思います。まだ3歳でしたからね。ダンスが好きとか、音楽が好きとか、その程度の傾向を親が感じ取ることはあるかもしれませんけれど。ただ、とにかく母自身が音楽を大好きだったんです。子守唄もシューベルトとかの歌曲が多かったですし、きっと自分でも子供の頃からピアノを弾きたかった、歌も歌いたかったと思うのですが、戦争中でできなかったので……たぶんそういうことだったんじゃないでしょうか。
 父も学生時代からアマチュア・バンドをやっていて、ハワイアンやカントリー、ビング・クロスビーが好きでした。だから子供の頃からレコードの音楽が聴こえてきたり、父がギターを弾いて歌っていたり、音楽が身近にある環境ではあったんです。

歌謡曲が入ってくる隙間がない家庭

 親に買ってもらった最初のレコードは、たぶんウィーン少年合唱団だったと思います。ウィーン少年合唱団は当時、アイドルだったんですよ。『少女フレンド』や『マーガレット』といった少女漫画誌の表紙を飾っていましたから。それからクラシック・バレエの森下洋子さん。バレエとか美しいものに憧れる気持ちはあったと思います。でも、それはあくまで憧れであって、そもそも1950年代から60年代にかけて、子供向けの娯楽なんてほとんどなかったんじゃないでしょうか。
 これは同級生が憶えてくれていた話で、私は後で聞いたんですが、父は『アンディ・ウィリアムス・ショー』(アメリカのショー番組。日本でもNHKで1966〜69年放送)を毎週観ていたそうです。うちにはカラーテレビがあったので、友達も集まってテレビを観ることがあったのですが、番組が終わると父はいつも拍手をして、「素晴らしい!素晴らしかったね」と言うんですって(笑)。毎週、我が家ではそういう宴があったようです。結局、うちの中の音楽の娯楽は、父の嗜好に沿っていたんでしょうね。
 ですから世間で流行っているような歌謡曲が、うちの中に入ってくる隙間が全然なかったんですよ。小学校で掃除のときに、友達が歌謡曲を歌っていたりすると、私はよく「それ誰の曲?」と聞いていましたから。だんだんまわりも「この人はそういう子」みたいな感じなっていって。「アッコちゃんはとにかくピアノを一生懸命やっている子」みたいな。普通の学校生活もちゃんと送っていましたが、私自身も自分がやりたいことは音楽だとはっきりしていましたし。

即興で好きなように弾きたい

 研究所のピアノの教え方は、システマティックではなかったという意味では、とても先端的だったかもしれません。先生はカナダから来たカソリックの尼さん達で、同年代の生徒一人ひとりに違うメソッドで教えるんです。曲を与えるときも、「この子にはこの曲」とそれぞれ違う。私にはいつもちょっと変な曲が与えられていたのですが、私にはそれが一番合っていると判断されていたんです。だから私は(初心者向けのピアノ教則本の)バイエルやハノンをやってないですし、ツェルニーはやりましたけれど楽しくはありませんでしたね。きっと一筋縄ではいかない生徒だったんだと思います(笑)。
 研究所には3歳から通いはじめ、小学校に入学してからも通っていて、最後に行ったのは4年生か5年生のときでしょうか。5年生くらいで、「私はジャズをやる」と言って辞めました。とにかく楽譜があって、それをなぞって演奏するという音楽は好きではなかった。それとは違うものがやりたかったんです。
 幼稚園の遠足から帰って来て、母から「楽しかったの?」と聞かれて、「こんな感じだったの」とピアノを弾いて答えた記憶があるんです。つまり、幼い頃から即興で何かを表現することが、身体の中にちゃんと入っていたんだと思います。それが自分にとっては一番合っている表現手段だということを知っていたんでしょうね。だからクラシックの世界で、誰かが書いた曲をどれだけ上手く弾くかを競い合うことには、はなから興味がなかったんですよ。しかも生まれつき目が悪かったので、譜面もよく読めなかった。最初にみんなが弾くのを見て、聴いて、ちょいちょいと再現した後は、もう教えられたことは身につかない。思いついたことをバッと弾いて終わらせたかったんです。即興音楽、即興でピアノを弾くということが私にとっては自然だったというか。
 ジャズをよく理解していたわけではないんです。「ジャズは好きなように弾いていい音楽だ」と安易に考えていて、それでも、これが私の生きる道だと考えたんじゃないでしょうか。

ポップス、ロックに触れたレコード店とラジオ

 実際にジャズに触れたのは小学6年生になってからだと思いますが、その前の4年生、5年生の頃にグループサウンズが登場するんです。そしてつぎはイギリス、アメリカのポップス。うちでピアノの練習するときに、課題なんかはもう魅力を感じていないから、チャチャチャッとやっちゃって、後は自分で聴いて覚えたグループサウンズの曲を弾いたり、歌ったりしていましたね。
 グループサウンズで一番好きだったのはザ・ゴールデン・カップス。ちゃんと演奏していて、当時としてはすごく上手かった。人気のバンドの中には、テレビで本当は演奏していないバンドがいることを、子供心に分かっていたから(笑)、余計にそう感じたのかもしれません。ザ・ゴールデン・カップスは、ジミ・ヘンドリックスのカバーをやっていて、センスがいいなあと思いましたね。
(医師だった)父の患者の息子さんがタカムラというレコード屋さんをやっていて、その方が、私の好みに合うジャズやポップスを分かってくれていて、店に行くとよく聴かせてくれたんです。子供だからお金がないので、レコードはなかなか買えないですが、このレコード屋さんにはよく足を運んでいましたね。
 それと青森のラジオ局でも、ポップスのリクエストに応える番組があって、ハガキを出したこともありました。ビートルズはNHKのFMで聴いたのかな。ラジオを聴いて、例えばセルジオ・メンデス&ブラジル’66を「これ好き!」と思ったら、リストに入れておくんです。母からはテストでいい点をとったら、買ってあげると言われていたので、つぎはこれを買ってもらおうというつもりで。

鋤田正義さんが1981年に撮影したポートレイト

クラブやジャズ喫茶へ。父のサポート

 6年生から中学生くらいは、ジャズとアメリカ、イギリスで流行っているロックやポップスのバンド、両輪で聴いていました。とにかく音楽をいっぱい聴いて、聴き覚えたものをピアノで弾いてみるとか。ピアノはうちで1人で弾いていましたが、父が外に飲みに行くときに私を連れていって、バンドが演奏しているクラブとかで「お前、弾いてこい」と言うんですよ。「えー!」みたいな(笑)。それでどうしようとなって、バンドの人が「何か弾けるの?」と言うから、「じゃあ(セルジオ・メンデス&ブラジル’66の)『マシュ・ケ・ナダ』を弾きます」とか言って、普通にバンドと一緒に演奏していたんです。その界隈ではちょっと有名になりました(笑)。
 父は何かとサポートしてくれましたね。明らかに音楽をやっていると楽しそうだった私のことを見て、いろいろなきっかけを与えてくれたのでしょう。ジャズ喫茶に一緒に行った後、自分は他の店へ飲みに出るのですが、わざと私をカウンターに残しておくんです。私はチョコンと座って、コーラを飲みながら「つぎはコルトレーンをお願いします」とか言っていました(笑)。レコードをたくさん買えるわけじゃないから、ジャズ喫茶で聴いて、覚えて。夜11時くらいになると、父が迎えに来て一緒に帰っていました。

Asteroid and Butterfly
2020年3月にリリース。矢野顕子と日本を代表する津軽三味線奏者・上妻宏光のユニット、やのとあがつまの1st. アルバム。2014年のNYでの初共演、2015年の日本凱旋公演、2018年のコラボ曲「Rose Garden」を経て、2020年3月にリリース。各地の民謡を両者のフィルターを通してカバヴァー した6曲に加え、2曲の新曲を含む全9曲を収録。伝統文化から新たな日本の音楽をが誕生させた。
宇宙に行くことは地球を知ること 「宇宙新時代」を生きる
スペースXの登場などで、「誰もが宇宙に行ける時代」の到来という歴史的転換点を迎えた今、宇宙の奥深さとその魅力を、矢野顕子と宇宙飛行士・野口聡一が語り合った。矢野はこれまで宇宙をテーマにした数々の楽曲を発表しており、Twitterでも宇宙に関する情報を分かりやすく発信している。光文社新書。取材・文は林公代。
【矢野顕子さんの最新ライヴ情報】
「やのとあがつま (矢野顕子&上妻宏光)Tour 2021 - Asteroid and Butterfly -」
■2021年5月4日(火・祝)秋田・由利本荘市文化交流館カダーレ
 15:15開場/16:00開演
■2021年5月6日(木)大阪・住友生命いずみホール
 18:15開場/19:00開演
■2021年5月8日(土)鳥取・米子市公会堂
 14:15開場/15:00開演
■2021年5月21日(金)東京・東京文化会館 大ホール
 18:00開場/19:00開演

矢野顕子

ミュージシャン

1974年のバンド、ザリバ名義でのシングル・リリース、小坂忠『HORO』(75年)、鈴木慶一とムーンライダース『火の玉ボーイ』(76年)への参加・楽曲提供などを経て、1976年、アルバム『JAPANESE GIRL』でデビュー。以降、自身のアルバム・リリース、「出前コンサート」「さとがえるコンサート」などの恒例ライヴだけではなく、YMOやティン・パン・アレー(TIN PAN)との共演、rei harakamiとの「yanokami」、森山良子との「やもり」、津軽三味線奏者の上妻宏光との「やのとあがつま」をはじめ、石川さゆり、上原ひろみ、YUKIなどさまざまなジャンルのアーティストとのコラボレーションも多い。2016年、ソロ・デビュー40周年記念のオールタイム・ベスト盤『矢野山脈』を発売。2018年、10周年を迎えたWill Lee、Chris Parkerとのトリオで限定ライヴ盤、コラボレーション・アルバム『ふたりぼっちで行こう』をリリース。
https://www.akikoyano.com/