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働く私の日常言語学

2024.04.30

Vol.8 映画監督・濱口竜介さんと語る、タイトル付けにまつわる言語化と想像力のバランス(後編)

文/小川知子

協力/清田隆之(「桃山商事」代表)

イラスト/中村桃子

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、さまざまなフィールドで活躍する方々と「ことば」について多角的に考えていく連載。今回は、前編に引き続き、映画監督の濱口竜介さんと、映画『悪は存在しない』(4月26日公開)と、ことばについて語り合います。

あらゆる物語には、必ず背景に現実の人がいる

小川知子(以下小川) 原作ものであっても、プロジェクトから始まったものであっても、全てリサーチから始まっているのだろうと想像しますが、『悪は存在しない』は、映画『ハッピーアワー』(15)に近しいプロセスを経て映画になっていったと言えるのでしょうか。

濱口竜介(以下濱口) 長さは違いますね。『ハッピーアワー』は、神戸に住んで、実際に製作期間が2年くらいあって、それまで神戸と何の縁もなかった自分が生活していくうちに、だんだん自分のなかに情報が溜まっていって、脚本が書ける身体になるという感覚がありました。でも、毎回それをやってたら自分の人生はどうなってしまうんだという思いもあり(笑)。そのときの方法をすごく圧縮すると、今回やったリサーチになるのかもしれませんね。

清田隆之(以下清田) 前編でも話したような、土地に根付いた生活やいろんな体験の蓄積ですね。

濱口 神戸に暮らして思ったのは、現実に根っこをもっていることばやその裏にある感情みたいなものは、やはり非常に強いなということで。例えば、物語的には多少不条理な展開やことばも、実際にそういうことを言ったり、やったりした人がいると知っているというだけで、自分が描くときの確信が全然違いますよね。その自分の確信の度合いが、おそらく、弱ければ弱く、強ければ強く役者さんにも伝わる。その積み重ねなのかなと最近は思います。演出をするうえでは、「これは本当にあるのだ」というものが自分のなかにひとつの軸としてあると、語りがすごく安定するというか、楽だなと思いますね。

小川 ある意味、社会学的なアプローチとも言えるんですかね?

濱口 むずかしいのは塩梅で、全部、現実の社会のことを書けばそれでいいのかというと、そうじゃないだろうとは思ってます。あまりに社会と密着しすぎると、ドキュメンタリーを撮って、撮影の対象となる人をどれだけ世に出すのか、という問題と近いものも出てきてしまう。だから、ある程度はリサーチをして、そこから先はできるだけ想像する、ある意味現実をねじ曲げる、っていうことを今のところはやっています。今回も、結局、説明会のあたりは、かなり現実にそっているのですが、ほかの部分はほとんど想像です。

清田 映画でも「大事なのはバランスだ」という印象的なことばがあって、今も塩梅の話をされていましたが、僕の場合、人の話を聞いて書くことがあるけれど、確かに現実に根ざしすぎるとドキュメントになってしまう。一方で、想像力や自分の視点を入れすぎるとこちらの理想や幻想が投影されてしまう。いずれにしても、実際の人たちから見聞きしたことばや学んだ感情を搾取してしまうのは怖いなといつも感じているんですね。濱口さんも、映画をつくるうえでそういう恐れや怯えはあるのでしょうか。

濱口 恐れや怯えを抱くことは、すごく大事だと思います。結局、原作があろうとなかろうと、物語ってなにがしか現実を根っこにもつものだと思うんです。例えば、オリジナル脚本だとしても、監督の体験とか過去の恋愛がベースとなっているような名作はたくさんありますよね。現実にルーツをもっている映画は、さっき話したようなある種の軸をもつというか、「よくわからないけど、でもこういうことはあるのかもしれない」と観客に思わせる奇妙な説得力を帯びるものだとも思います。ただ、ときにフィクションへの好奇心が、そのまま現実に伸びていく可能性や、危険性も当然ある。だから、ある程度その好奇心をちゃんとブロックして、現実にいる人たちに至らないようにするような配慮も必要ですよね。

清田 まさにそうですね……。説得力やリアリティって、前編で濱口さんが言っていた「強度」の問題でもあるじゃないですか。それを出すためにも、取材などで得た現実のことば、生のことばをそのまま使いたいという誘惑にかられる一方、文脈を都合よくねじ曲げてしまう搾取の問題や、それこそ身バレのようなプライバシーの問題にもつながるリスクがあり、倫理のバランスも必要だなと痛感します。

濱口 たったひとつのインプットではなく、いろんなものを自分の人生の中でインプットして、混ぜ合わせておくということがひとまずはあり得るかな、と。結果的に、いろんなインプットを渾然一体とさせて、「いかにもフィクション」というものを提示するというのが、現時点での自分の方策です。なんであれ、あらゆる物語には背景に現実の人が必ずいるということを肝に銘じておかないと、自分がしっぺ返しを食らうなということは思っていますね。

よくわからないけどそれが起きている、その生々しさを体験する

小川 ライターとしてインタビューをすることも多い身として聞きたかったのが、濱口さんはプロモーションでいろんな質問を受け、答えていらっしゃると思いますが、核心に触れるような、例えば、「あのシーンの意味を説明してください!」みたいな問いに対しては、どう対応しているんですか?

濱口 これはもう本当にその時々によりますね。質問をしてくれた方のアプローチや態度によって、話してもいいかなと思うところもあるし、「いや、そんなことを聞いちゃダメですよ」という答えになることももあるし、質問に至る流れやその人のありようによって変わるので、あまり事前に決められないんですよね。

清田 いわゆる「ネタバレ」につながるような質問をされることも多いんですか?

濱口 そこそこあります。なので、予め答えを用意しておいたほうが楽ではあるけれど、それを口にすると、やっぱりそれまでの会話の流れはどこか絶たれてしまう。それが単純に気持ち悪いというのもありますし、ときには虚しく感じることもあるので、できるだけ話している方の関心に即して、言える限りのことで応える。

小川 質問している側からすれば、その姿勢はすごくありがたいというか誠実……!と思いますね。

濱口 その一方で、基本的に劇映画は因果関係の連鎖でストーリーを語っていくものですが、現実に生きている体験として、ただポンッと目の前にそれが起きる、ということってあると思っています。実際、そうなるまでに複数の原因があったとしても、それを全部こちらが把握できるわけではまったくないですよね。

清田 例えば映画『寝ても覚めても』(18)では、唐突とも思えるタイミングで地震が起きたじゃないですか。今のお話を聞いて、あの映画で描かれていた、よくわからないけどそれが起きている、という生々しさを思い出しました。

濱口 そうですね。『寝ても覚めても』は一見、原因がなくいろいろなことが起きているふうに見える映画です。全体として、まさに今言ったような、自分の認識を超えた何かが突然起こる、みたいな世界観でつくられています。でも、一応どうやってそういう不条理が妙に必然性が感じられるように、観客に届くだろうということも考えながらつくっていました。わけもわからず起きたできごとの生々しさやこの世界の不気味さみたいなものを、まだ安全に体験できるのが映画というものなので、自分がつくるときは、そういう不条理が、むしろ観客にとって大事なものであるはず、と思ってやっています。

小川 確かに、映画は安全にすごく揺さぶられる体験ができる場ですよね。でも、その安全な環境を構成する中には、さっき濱口さんがおっしゃったような、物語の後ろなり先なり裏なりにいる現実の人々への敬意というか想像力を作品から感じられるからでもあるというのは個人的な感覚としてあります。そのうえですごく驚かされたり、居心地悪くなったり、ショックを受けたりはするんですけどね。

清田 少し今の話につながるかもしれませんが、映画にはタイトルを付ける必要が出てくるじゃないですか。ある意味タイトルって、究極的な説明行為になってしまう可能性もある。複雑で割り切れないものを大切にしながら映画をつくることと、そこに全体を象徴するようなタイトルを付けるという行為の間にある葛藤と言いますか……濱口さんはいつもどんな考えや感覚でタイトル付けと向き合っているんですか?

濱口 やっぱり、タイトルが付いているって、人生との大きな違いですよね。人生は、基本、タイトルが付いてない状態で、みんな生きるわけじゃないですか。でも、この映画の中には、ものすごく現実と似たような状況もあるわけですが、タイトルが付いてるわけです。つまり、映画の時間全部がそのタイトルの上に乗っかっているというか、言わばタイトルができごとの支持体としてあって、それとの関係で常にできごとを解釈せざるを得ないところがありますよね。そういうタイトルが、あまりに説明的なものになってしまうと貧しい気がするので、観客の想像が膨らむようにとは願って付けています。

清田 例えば本のタイトルを決めるときなんかは、そこに営業的な視点……つまり「わかりやすさ」みたいな力学も強く絡んでくるので、毎回めちゃくちゃ難航することが多いです。

濱口 タイトルは必ずなくてはならないものなので、自分としてしっくり来るものが思いつくと楽しいですよね。自分で付けている『ハッピーアワー』、『偶然と想像』(21)、『悪は存在しない』に関して言うと観客は、こういうタイトルの映画を観ていると常に意識はしてなくても、一応頭の片隅に置いて観ていると思うんです。そうするとある時にピンと来たり、あれ、何だか離れたなと思ったら、またピーンと来たりする。そういう体験をしてもらいつつ、最終的には「えーっ!」となる。でも、このタイトルの映画なんだよなと思いながら観れる。そういうタイトルを付けているつもりです。

小川 意味がひとつではなくて、関係によっていろんな広がり方をするし、観ているこちらを問いの渦の中に引き摺り込むようなタイトルばかりなので、ずるいしうまいなぁと思いますよね。

濱口 よく言うとタイトルと物語の関係は詩みたいなもので、詩の場合、一行一行が互いにどう関連しているのか不明瞭なところがあるはずで、読者はそういうことばとことばの距離に応じて、いろいろな想像を働かせるものじゃないですか。だから、映画の中の物語や時間とうまく相互作用するようにタイトルを置く、というのは大事に考えてますね。

小川 いや、濱口さんの映画言語と、ご自身の映画について観る人の見解を断定することなく、広げる方向で気持ちよく言語化する能力には痺れてしまいます。ね、清田さん。

清田 わかりやすさの呪縛に囚われて、ことばや文脈に宿る豊かなニュアンスを削いでしまったり、読み手を誘導するようなまとめ方をしてしまったり、そのあたりは書き手として自分の切実な課題だったので、本当に贅沢な時間でした……。このたびはありがとうございました!

映画『悪は存在しない』
長野県水挽町は東京から近く、移住者の増加で開発が進んでいる。巧と娘の花は、この自然豊かな高原の町で代々慎ましく暮らしている。そんななか、コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府の補助金を得て、グランピング場の開発を進めるのだが……。4月26日(金)より、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国公開中。
監督・脚本/濱口竜介 音楽/石橋英子 出演/ 大美賀均、西川玲ほか
https://aku.incline.life/
© 2023 NEOPA / Fictive
濱口竜介(はまぐち・りゅうすけ)
映画監督。2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』が国内外の映画祭で高い評価を得る。その後も317分の長編映画『ハッピーアワー』(15)が多くの国際映画祭で主要賞を受賞、『偶然と想像』(21)でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)、『ドライブ・マイ・カー』(21)で第74回カンヌ国際映画祭脚本賞など4冠、第94回アカデミー賞国際長編映画賞を受賞。地域やジャンルをまたいだ精力的な活動を続けている。『悪は存在しない』(24)で第80回ベネチア国際映画祭銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞。


小川知子

ライター

1982年、東京生まれ。上智大学比較文化学部卒業。雑誌を中心に、インタビュー、映画評の執筆、コラムの寄稿、翻訳など行う。共著に『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)がある。
https://www.instagram.com/tomokes216
https://twitter.com/tometomato

清田隆之

文筆家

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。
1980年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。著書に『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか』(イースト・プレス)、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)、澁谷知美さんとの共編著『どうして男はそうなんだろうか会議 いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』(筑摩書房)がある。近著に『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門~暮らしとメディアのモヤモヤ「言語化」通信~』(朝日出版社)、文庫版『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(双葉社)がある。
イラスト/オザキエミ
https://twitter.com/momoyama_radio

中村桃子

イラストレーター

1991年、東京生まれ。桑沢デザイン研究所ヴィジュアルデザイン科卒業。グラフィックデザイン事務所を経てイラストレーターにとして活動。装画、雑誌、音楽、アパレルブランドのテキスタイルなど。作品集に『HEAVEN』がある。
https://www.instagram.com/nakamuramomoko_ill/