恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、さまざまなフィールドで活躍する方々と「ことば」について多角的に考えていく連載。
2人目は、俳優でもあり、演出、脚本も手掛ける山田由梨さんと「ことば」について語り合いました。後編をお届けします。
「他者のことば」と「自分のことば」
清田隆之(以下清田) 前編 で「地層」という話が出てきたじゃない? 調べたことや勉強したことは地層の奥深くに置いておき、その表面の部分がセリフになっていくという話が個人的にすごく印象的で。
小川知子(以下小川) 「氷山の一角」みたいなイメージだよね。
清田隆之(以下清田) そうそう。自分が原稿を書くときにも参考にすべき話だなって感じたんだけど、一方でそれは言うほど簡単なことじゃなくて、調べたこととか、取材したこととか、自分の体験談とか、原稿の下地になる要素が混ざり合って地層が形成されるまでには結構な時間がかかったりする。そこが毎回苦しむところで……地層化がしっかりなされる前に書いてしまうと、一見コラムやエッセイの形になっていたとしても、内容にイマイチ確信が持てないというか、なんか嘘っぽい感じがしてしまうのよ。
小川 わかる気もするけど、具体的にはどういう?
清田 例えば誰かの本からことばを引用するとき、それが地層から出てきたものでないと、単に説明や権威づけのために利用してる感が漂ってしまうとか、誰かのエピソードを紹介するときも、妙にきれいにハマりすぎてしまい、どことなく「論旨を補強するために持ってきたエピソード」みたいになってしまうというか……。
小川 私はインタビューしたり、人と会う仕事が多いから、誰かから聞いたことが無自覚で自分の一部になりすぎちゃってることが怖いと思うときはあるかも。もちろん一言一句変えずに人の発言を自分のことばとして話すことはないにしても、会話の中でいろんな発見があったり、それぞれがつながり合ったりして私の一部になっていくわけで、そうなったときに、どこまでを自分のことばとして話していいのかを考えなくはない。
山田由梨(以下山田) いくつかの段階がありそうですよね。他者のことばって段階ならば「誰々が言ってたんですけど」って引用元を示すだろうし、微妙だけどまだ自分の中に溶けきっていないような場合は「これって言っていいのかな?」という感覚が残るはずで。でも忘れるくらい溶け合っているならば、それはもう自分のことばになっているような気もします。
清田 もはや思想や哲学になってるってことだもんね。
山田 少し話はズレるんですけど、演技の経験がない人にセリフをしゃべってもらうと、出てくることばが“文章”になっちゃうケースが多いんですよ。そういうときのことばって実感が伴ってなくて、その人にとって文章として存在している。私たちが普段しゃべってるときは音とか意味でしゃべってるはずで、だからそういう方への演技レッスンをする際にはまず文章としての認識を取っ払う作業をしなきゃいけなくて。
清田 自分に演技経験はないけど、ラジオなんかで台本に用意されたことばを言うとき、まさにそんな感じになってるかも……。
山田 最近そういうレッスンをする機会があってやってみたことなんですが、まず「このシーンで語られてることはなんなのか」をその人なりに要約してもらうんです。なんでそのセリフを話すかという意図や意味、背景などを書き出してもらい、次に「その状況設定でエチュード(即興劇)をしてみてください」と。そうすると、自分の頭で考えて話すという過程を踏むことになるから、少しずつ文章ではなくて音や意味でしゃべれるようになる。内容的には元のセリフとほとんど同じなんだけど、自分のことばっぽくなってくるんですよ。そうやって、文章じゃないことばでしゃべれたっていう体験をつかんでもらってから、具体的な演技指導に移行するということをします。
キャラクターや話の流れにあえて“不純物”を入れる
清田 脚本や文章の具体的な書き方についても興味があるんだけど、前編で「最初はあまり何も考えずに、指先で書いてるみたいな感じかもしれない」という話があったじゃないですか。
山田 そうですね。わりと感覚的に書いてると思う。ノリというかリズムというか、理詰めで考えてるわけではないですね。
清田 それがすごく不思議で。というのも、問われればすべて説明できるほど、あらゆるセリフや描写には意図があるわけだよね。もちろんあとから意味づけすることも多いと言っていたので、あらかじめ言語化されているわけではないにしても、そこに囚われることなく感覚的に書けるって、実はかなり難しいことじゃないかなって。
山田 最初から全部説明できてしまうものだと多分おもしろいものにならなくて、理路整然と並んでるだけになってしまうから、なるべく感覚的に、「こっちのほうがなんとくいい」みたいな感じに任せて書きたいんですよね。ただ、演出もすることもあるので、そういう場合は俳優やスタッフに説明する必要が生じるため、事後的に言語化するというか。
小川 山田さんは、それこそ完成した舞台や映像作品を観た人と会話したり、インタビューをされたりすることで自分がやりたかったことを言語化していくうちに、あ、私が描きたかったのはこういうことだったんだとわかることもあるという話をしてましたよね。
清田 今の話を聞いて、自分は「わかりやすく書かなきゃ」って思い込みにすごく囚われてるんだなと感じた……。なんか、エッセイを書くときもそうだし、インタビューや対談を構成するときもそうなんだけど、「この話について説明しないとこっちの話が理解できないだろうから」とか、「この単語を使うためには、こういう前提を共有しておかないとよくわからないだろうから」とか、いろいろ心配になって先回りをして、話の順序や文章の組み立て方がつい説明的になってしまうのが悩みどころで……。
小川 ひたすら清田くんのお悩み相談になってる(笑)。同業者として、清田くんの構成力は素晴らしいなって思うけど、その“わかりやすさの呪縛”みたいなものが個人的な課題になってるわけだね。
清田 そうそう。意味とか文脈に囚われすぎるあまり、文章に「余白」や「遊び」みたいなものがなかなか宿らないというか……二人はこういうのどうしてるんだろうって。
山田 ドラマの脚本を書くときなんかは、あえて“不純物”を入れたりするかも。例えば「この人物はこういうキャラだよね」って共有がなされたあとに、その人がしなそうなことをあえてさせる、みたいな。ステレオタイプにしないためという狙いももちろんあるんですけど、「この人ってこういうことするんだ」「イメージと違う」なんて瞬間は日常でも全然あるじゃないですか。そういう裏切りを意識的に入れるというのはよくやってる気がします。そうすることで、人物に奥行きが出ることってあるんですよね。
小川 だから、私は山田さんの作品が好きなんだと思う。完全ないい人も、完全な悪人も現実の私の周りにはそうそういないし、多面的で矛盾を抱えてて、自分にはわからないことこそが魅力にもなり得るというか。そういう感覚は、自分が文章を書くときにも意識してることかもしれない。
“わかりやすさの呪縛”の背景にあるもの
小川 一貫性ってあったほうが読み取りやすいけど、ないほうがおもしろいと思ってしまう節もあって。だから対談や座談会を構成するとき、自分もぼんやりした質問を投げることもあるし、こちらの質問に対する答えがズレていたり、話がどんどん本筋から変わったとしても、その場の流れやリズムをポンポン生かして、なんとなく最終的に浮かび上がってくるものがあればいいかなと。もちろんそういう終着点の見えない会話を楽しいと思わない人がいるのもわかるから、相手は選ぶけども。
清田 そうだよね、会話って必ずしも直線的に流れてるわけじゃないもんね。
山田 個人的には一貫性がなかったり「わからない」と思うことっておもしろいことだと思ってて。でも、それは演劇などいろんな作品に触れる中で後天的に身につけたものかもしれなくて、もちろん、わからないものを遠ざけたくなる人の気持ちもわかるんですよ。演劇のお客さんは能動的に観に来てくれた人だけど、テレビの脚本は途中で離脱する人もいる前提で書かないといけないから、わかりやすさのバランスは常に意識してるかも。
小川 わからないって、しばしばマイナスの意味でも使われたりしますもんね。「つまらなかった」とか「好きじゃなかった」と言うと相手をびっくりさせてしまうから、直接的な表現は避けて、「わからなかった=理解できなかったのは自分の責任」ということにしておけば角が立たないというか。
清田 それを極度に恐れてるのもあるし、あと多分、読み手を信頼できていないのも“わかりやすさの呪縛”の背景にあるかもしれないって思った。解釈を委ねることができないからつい説明的になってしまう。だから感覚的に書くことができない……というか。個人的な内容のエッセイでさえ、「ライターの清田さんが桃山商事の清田代表に取材して書く」みたいな感覚があって。
小川 私は清田くんほどプロ意識がないのかもしれないけど、自分の文章を「ライターの小川さん」感覚で書くことはないかな。もちろん、伝わらなかったら意味ないとも思うから、ギリギリ伝わるだろうラインは自分なりに守るんだけど、ただたまに余白をギチギチに埋めるような修正指示が入ったりすると、こちらが余白を残した意図を説明して反論はしている。デフォルトが、「そこまでわかりやすくしなきゃダメですか?」というスタンスではあるので。
清田 その感じ、本当にうらやましいし、自分にも欲しい。なんというか、これは駆け出し時代に先輩たちから「わかりやすく書けないとダメ」「ライターの感想なんて情報価値なし」ってさんざん刷り込まれた影響かもだけど、ライターの清田さんが“超自我”みたいに自分の文章を見張ってて、「その書き方じゃ伝わんないなー」「それってあなたの個人的な意見ですよね?」ってダメ出ししてくるのよ。
山田 その悩み、めっちゃおもしろい(笑)。もうあれですよ、ただの“清田”になって書いちゃえばいいんですよ!
清田 まじで山田さんの演出を受けたいわ……。でも確かに、冒頭の「地層から出る」って話じゃないけど、学んだこととか個人的なエピソードとかがドロドロに溶け合った状態で書いてるときはただの“清田”に近いかも。書きながら突然よみがえる記憶とかがあったりして、感覚的に盛り込んだりするんだけど、意外と根っこのほうでつながっていて、「このエピソードがぽんと出てきたのは必然性があったんだ」ってあとから気づいたり。
山田 そういうときっていい文章になることが多いですよね。
清田 ていうか、二人とお茶してるといつも悩み相談みたいになっちゃうね(笑)。
小川 横道に外れてまた戻ってきてもいいし、回り道しても片付けなくてもオチをつけなくてもいい、それがお茶を前にしたコミュニケーションですから。でも、本当に悩んでるなら、気軽にセラピー受けてみたらいいと思うよ。
1992年東京生まれ。作家・演出家・俳優。立教大学在学中に「贅沢貧乏」を旗揚げ。俳優として映画・ドラマ・CMへ出演するほか、小説・ドラマ脚本の執筆も手がける。『フィクション・シティー』(17年)、『ミクスチュア』(19年)で岸田國士戯曲賞最終候補にノミネート。2020・2021年度セゾン文化財団セゾンフェローI。1月にABEMAで配信され話題となった『30までにとうるさくて』では脚本を担当。また、NHK総合の夜ドラ『作りたい女と食べたい女』の脚本も手掛けた。
@yamadayuri_v
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