森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 :XIX 寺田寅彦「銀座アルプス」の一考察
「銀座アルプス」(*1)は、寺田寅彦が、昭和8年(1933年)の元日、中央公論に掲載するために書いた銀座についてのエッセイです。銀座アルプスというタイトルは、当時、松坂屋や松屋、三越、といった高層のデパートが姿を表し、銀座が「立体的に生長」したことによります。寺田寅彦は銀座に出ては、百貨店をはじめ、コーヒーやアイスクリーム、シュークリーム、洋食などを通して銀座に親しんでいました。
冒頭で寺田寅彦は、8歳の頃、明治18年(1885年)の記憶として、銀座の冬の夜について、以下のように述べています。少し長くなりますが引用します。
「どんな芝居であったかほとんど記憶がないが、ただ『船弁慶(ふなべんけい)』で知盛(とももり)の幽霊が登場し、それがきらきらする薙刀(なぎなた)を持って、くるくる回りながら進んだり退いたりしたその凄惨に美しい姿だけが明瞭に印象に残っている。それは、たしか先代の左団次であったらしい。そうして相手の弁慶はおそらく団十郎ではなかったかと思われるが、不思議と弁慶の印象のほうはきれいに消えてなくなってしまっている。しかし時の敗者たる知盛の幽霊に対して、子供心にもひどく同情というかなんというかわからない感情をいだいたものと見えて、そういう心持ちが今でもちゃんと残留しているのである。(中略)芝居がはねて後に一同で銀座までぶらぶら歩いたものらしい。そうして当時の玉屋の店へはいって父が時計か何かをひやかしたと思われる。とにかくその時の玉屋の店の光景だけは実にはっきりした映像としていつでも眼前に呼び出すことができる。」
玉屋とは、当時、測量機器や時計、玩具を販売していた老舗で、現在の銀座3丁目「HUBLOT」と「Loro Piana」がある場所に店を構えていました。そして、この記憶について寺田寅彦は、次のように続けます。
「この銀座の冬の夜の記憶が、どういうものかひどく感傷的な色彩を帯びて自分の生涯につきまとって来た。それにはおそらく何か深い理由があるであろうが、それに関する手がかりは、自分の意識の世界からはどうしても探り出すことができないのである。」
ここで私が問題にしたいのは、寺田寅彦が、「自分の生涯につきまとって来た」と書いている点です。なぜ、そうなったか。『夏目漱石とクラシック音楽』(瀧井敬子著、毎日新聞出版刊)で、土佐藩出身の寺田寅彦の父に関する以下の文章を読んだとき、その理由が透けて見えました。
「文久3年(1861年)旧暦の桃の節句に、酒に酔った土佐藩の上士二人と下士二人がぶつかって喧嘩となり、二言三言言い争っているうちに、上士二人と下士一人が斬り合って死んだ。上士と下士は日頃から対立していた。生き残った下士は、寅彦の父利正の実弟であり、その19歳の実弟の切腹の介錯をしたのが、当時25歳だった利正であった。この井口村刃傷事件によって、彼(寅彦の父)は実弟の自害の介錯をしなければならなかった。」
寺田寅彦は、この話を、祖母や母、姉から、少年時代に聞かされたといいます。その無念たるや。あくまで自分の仮説ですが、家族の歴史が、あの芝居と結びついたのではないでしょうか。寺田寅彦は次のようにも述べています。
「みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。」
銀座に空虚は似合いませんが、谷があるからこそ山があるのは確かなこと。「銀座」とは、その意味において、アルプスなのではないかとも思いました。
*2 寺田寅彦/1878‐1935。科学者、物理学者として世界的な業績を残した研究者でありながら、『コーヒー哲学序説』など名随筆も数多く残している。