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現代銀座考

2020.05.12

【新連載】現代銀座考 :Ⅰ 和光の鐘

写真/伊藤 昊

文・イラスト/森岡督行

『花椿』2020年夏・秋合併号で「銀座と資生堂の物語」をテーマに銀座について考察を深めた森岡書店代表の森岡督行さんが、書籍や出来事を通して過去の銀座と現在、そして未来の銀座をつなげる新しい銀座物語です。
時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を想像で歩いてみてください。

 

 

 

Ⅰ 和光の鐘

 銀座4丁目の現在の和光のビルが竣工したのは1932年6月10日でした。そのときから今に至るまで、銀座のシンボルとして時を刻んできました。和光の前に立つと、当時の銀座はどういう街だったかを考えたくなります。
 そこで私は、1933年5月1日から5日にかけて資生堂化粧品部(*1)の2階にあった資生堂ギャラリー (*2)で開催された「山脇道子バウハウス手織物個展」に行くことができたら、どんな行程になったかを想像してみました。

 1933年5月1日の天候は晴れ。11時、京橋区木挽町の鈴木ビル内(*3)で身支度を整えました。グレーの背広に白いシャツ、ペイズリーのネクタイを選びました。外に出ると、三吉橋で、鈴木さんの息子さんのA君がハゼを釣っていました。昭和通りを渡り、ヨネイビルの前を通り、銀座通りを越えて、まずは銀座3丁目の煉瓦亭(*4)に向かいました。銀座通りを歩いているとき、柳が揺れて、正午をつげる和光の鐘が12回鳴り響きました。煉瓦亭のテーブルに着席した私は、好物のオムライスとポタージュスープを注文しました。トマトケチャップの風味に、ふっくらなめらかな卵の食感が魅力です。13時、銀座6丁目菊水ビル(現在は5丁目にある)の米倉(*5)で散髪。髪型は七三かオールバックか迷いましたが、いつものオールバックにしてもらいました。髭も剃ってもらいました。米倉では顔にあてるタオルを次々に変えていきます。一回の施術で何枚タオルを使うのでしょう。

 14時、資生堂ギャラリーに向かう前に、銀座8丁目の銀座千疋屋(*6)をのぞきました。山脇道子さんは、今日、きっと抱えきれないほどのお菓子をいただくだろうから、旬の果物をお土産にしようと考えました。ちょうど浜松から届いたメロンが並んでいました。
 銀座7丁目の資生堂化粧品部の奥の階段を上って2階の資生堂ギャラリーに行くと、たくさんのお客さんがいました。詩人で写真家、デザイナーでもあった北園克衛さんや洋画家の佐野繁次郎さんの姿がありました。15時、私は和装の山脇道子さんに挨拶をして、メロンを渡しました。隣には旦那さんの巌さんがいました。巌さんは写真を撮っていると聞いたので、ぜひ、バウハウスの写真を見せていただきたいとお願いしました。その後、資生堂化粧品部の前で『資生堂月報』(現『花椿』)(*7)の編集者と合い、原稿の校正をいただきました。ショーウインドーの香水を見ていたら、中にいたカメラマンが撮影してくれました。
 16時、隣の銀座8丁目の資生堂パーラー(*8)の扉をくぐり、珈琲の香りのなか、原稿の校正を確認しました。その後、アイスクリームも頬ばりました 。17時、みゆき通り路地裏の銀座・ルパン(*9 )でウイスキーを一杯だけ飲んで帰ることにしました。今日は私が最初の客となりました。18時、帰り際、銀座4丁目の交差点を渡るとき、和光の鐘が6回鳴り響きました、木挽町のチョウシ屋(*10 )の前を通ると、コロッケを揚げる香りがしました。鈴木ビルのA君は、きっとまだ外で遊んでいるだろうからコロッケサンドを買っていくことにしました。案の上、A君は、鈴木ビルの前で遊んでいました。その姿が見えてきたところで、想像は終わりにします。

 大切なのは、ここに書いた行程は、「山脇道子バウハウス手織物個展」とA君を除けば、今も同じようにたどることができることです。いやできるはず。言うまでもなく、1945年1月の空襲で、銀座もかなりの地域が焦土と化しました。そのときのことを考えれば……。今度のコロナ禍が一刻も早く終息し、時間ごとに響く和光の鐘のもと、銀座を歩ける日が来ることを願って止みません。

 

山脇道子(やまわき・みちこ)/1910年、裏千家の茶人・山脇善五郎の娘として生まれる。女学校卒業後18歳で、東京美術学校建築科卒業後、横河工務店に勤務していた藤田巌と結婚。1930年に夫に付き添ってドイツ・デッサウに行き、道子もバウハウスへ入学。当時20歳だった道子も試験的に入学が許され、二人は予備課程を経て、巌は「建築・内装」科へ、道子は「織物」科へ。しかし、1932年、ナチズムの台頭で雲行きがあやしくなりデッサウのバウハウスは9月末閉鎖、二人はその年帰国の途につく。1933年5月に資生堂陳列場にて個展を開催。著書に『バウハウスと茶の湯』(新潮社、1995年)がある。

(*1) 資生堂化粧品部/1916年竹川、竹川町11番地(現在・銀座7-8-10)に化粧品部開店。現在の「SHISEIDO THE STORE」。

(*2 )資生堂ギャラリー/1919年に資生堂初代社長・福原信三により、竹川町11番地の化粧品部2階に陳列場(現・資生堂ギャラリー)として開設された。
※資生堂ギャラリーは現在、中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビルB1Fにある。

(*3) 鈴木ビル/現在の住所表記では中央区銀座1-28-15。鈴木ビルには森岡書店が入居している。

(*4) 煉瓦亭/1895年創業の洋食屋。現在も変わらず人気店。

(*5 )米倉/1918年築地の精養軒ホテルで創業し、1923年に銀座6丁目の菊水ビルに本店を開設。1936年に銀座6丁目に移転。2001年に数寄屋橋ショッピングセンター(銀座ファイブ)2階に移転し、新規開設。

(*6) 銀座千疋屋/1894年銀座8-2に新橋千疋屋として創業、1913年に日本初の「果物食堂フルーツパーラー」を開業。1923年に銀座千疋屋に改名。現在は5丁目店に統合。

(*7) 資生堂月報/1924年、日本の女性に美しい生活文化情報を伝えることを目的として創刊された、季刊誌『花椿』の前身となるもの。『花椿』は1937年に創刊し、戦時中の一時休刊を経て、現在に至る。

(*8) 資生堂パーラー/1902年、東京銀座の資生堂調剤薬局の一角に、ソーダ水や当時まだ珍しかったアイスクリームの提供を生業として誕生。1928年には本格的な西洋料理を取り入れ、洋菓子の製造販売もスタート。西洋の食文化をいち早く日本に発信したレストランでもある。

(*9) 銀座・ルパン/1928年洋風の居酒屋として開店し、1936年にカウンターバーに改装。名だたる文豪が集い、数々の歴史が生まれた場所でもある。

(*10 )チョウシ屋/1927年創業の老舗の揚げ物屋。コロッケやハムカツ、カツサンドが有名。中央区銀座3-11-6にある。

伊藤 昊

写真家

いとう・こう 1943年大阪府生まれ。生後まもなく、両親と共に父親の実家のある宮城県涌谷町に疎開。6年生のときに、京都太秦の小学校に単身で転校。1955年に東京の明治学院中学校に入学。1961年に東京綜合写真専門学校に入学。1963年に卒業後、同校の教務部に就職。この頃に写真展を2度開催する。1968年に同校を退職し、フリーのカメラマンとなる。1978年に益子に移住し、塚本製陶所の研修生となる。1981年に築窯し陶芸家として独立。その後は晩年まで陶芸家として活動する。2015年に逝去。
5月5日に写真集『GINZA TOKYO 1964』が森岡書店より刊行された。
https://soken.moriokashoten.com/items/2dabee933141

森岡 督行

1974年山形県生まれ。森岡書店代表。文筆家。『800日間銀座一周』(文春文庫)、『ショートケーキを許す』(雷鳥社)など著書多数。
キュレーターとしても活動し、聖心女子大学と共同した展示シリーズの第二期となる「子どもと放射線」を、2023年10月30日から2024年4月22日まで開催する。
https://www.instagram.com/moriokashoten/?hl=ja