新橋芸者の方々から譲り受けた着物と羽織でスカジャンをつくったのは、コロナ禍の2021年でした。その詳細は、現代銀座考の「銀座のスカジャンと新橋色」に書きましたが、今回は、後日談としての感想になります。
あらためて振り返ってみると、この企画には、二人の人物の存在が必要でした。
その一人は、石内都さんに他なりません。そもそものきっかけが、石内さんが発注した、丸帯でリメイクしたスカジャンを見せてもらったとき、「自分も同じようなものが欲しい」と思ったからでした。
石内さんにはそうする理由がありました。石内さんの故郷である群馬県・桐生では、古くから養蚕・製糸・織物が盛んで、とりわけ、明治期になると、生糸貿易による外貨が、殖産興業と富国強兵の礎になったため、より繊維業界が発展しました。
スカジャンのスカとは、横須賀のことですが、石内さんは、幼少からは横須賀で暮らしました。スカジャンは、敗戦後、横須賀に進駐した兵隊向けにつくられた、いわばお土産。スカジャンの素材は化繊だったので、その多くは、桐生でも生産されていました。つまり石内さんが辿った土地の歴史がスカジャンに内在されている。日常的に和服を用いる石内さんが、使わなくなった丸帯を使ってスカジャンをつくることは必然だったのです。
銀座のスカジャンづくりを真っ先に相談したのは、壹番館洋服店の渡辺新さんでした。コロナ禍でお座敷が減ってしまった銀座や新橋の芸者の方々から着物と羽織を譲り受け、再利用を考えました。戦後史の一面をなぞるようなスカジャンに、もうひとつ歴史を織り込むようなイメージが芽生えました。表面となる着物と羽織は、新さんのご協力あって、新橋芸者の方々が提供してくださりました。裏地には新さんが持っているカシミアの生地を配置。アーム部分は特注の“新橋色”に染めてもらいました。石内さんと新さんと一緒に桐生の工場に出向き打ち合わせを行い、なんと18着が完成しました。これらの、いわば、ギンジャン(ギンザうまれのスカジャン)を買ってくださったのは、銀座で代々商売をしている方々と銀座に縁のある方でした。芸者の方々に感謝の気持ちを伝えるため、コロナ禍が落ち着きをみせたころ、銀座7丁目の金田中で一席設けました。
考えてみれば、本来このようなことを短期間で行うことはできません。企画が成立した背景には、貴重な着物と羽織を提供してくださった芸者の方々、笑顔で買ってくださった銀座の街の方々の理解と協力が不可欠でした。ではなぜ理解してくださったのか。このスカジャンの背後には、銀座に受け継がれた文化があるようです。すなわち、先行きの見えないような時代になって、尚、評価の定まっていない何事かを尊ぶという文化。あらためてそれを知らされる私。まったくの偶然ですが、桐生の工場には、壹番館洋服店の目と鼻の先の数寄屋橋で、スカジャンが売られているモノクロ写真が残されていました。
銀座にまつわるさまざまなモノから見えてくる、銀座の、石内さんの、そしてあなたの物語です。