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私たちがどこかの街に初めて行くとき、そこには何かきっかけがあるというものです。例えば銀座に初めて行くというときもきっかけはあるでしょう。観劇かもしれないし、会食かもしれないし。他でもない石内都が初めて銀座に足を運んだときは以下に読まれるようなきっかけがありました。時は1962年、石内都15歳の冬の出来事。
当時の石内は、もちろんまだ写真に出会う前で、興味の対象は音楽にありました。巷では飯田久彦(*1)の「ルイジアナ・ママ」が大ヒットした時代にあって、石内も彼のファンを自認していたのです。住んでいた横須賀でレコード「悲しき街角」を求めては、初めて英語の歌詞を和訳したという歌詞をおっていました。そんなおり、石内の耳に、飯田久彦のショーが行われるという情報が入ってきました。銀座の「ニュー美松」(*2)というスタジオで開催されるというのです。このとき石内は決断しました。「銀座に行ってみよう」と。ちょうど石内の叔母が東京のバスガイドをしていたので引率役となりました。
ところで現在の銀座に「ニュー美松」はありません。いったいこのスペースはどこにあったのでしょう。今回総力をあげてリサーチしたところ、1960年代に刊行された地図の一角、銀座4丁目の三越新館付近に「ニュー美松」があったことが判明しました。石内は銀座4丁目を目指していたのです。横須賀から銀座に向かった石内の鞄には、飯田久彦に手渡すプレゼントが入っていました。
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子どもにとって銀座は遠い街です。横須賀の軍港の街と比較してもまったく雰囲気は違います。石内の目に銀座4丁目はどう映っていたのでしょうか。その風景の中で、ついに石内は飯田久彦と対面しました。そして持参した手土産を手渡すことに成功。さらに握手。今回の連載では、いまも石内自身が所有している飯田久彦のレコードを撮影してもらいました。このレコードの背後には1962年の銀座の記憶があったのです。特筆すべきは14歳の石内が入れた「この写真が一番かわいい」という文字でしょう。石内の率直な気持ちが表れているようです。
*2 ニュー美松/かつて銀座4丁目にあった生演奏を聴かせるジャズ喫茶。
銀座にまつわるさまざまなモノから見えてくる、銀座の、石内さんの、そしてあなたの物語です。
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石内 都
フォトグラファー
1947年、群馬県桐生市生まれ。神奈川県横須賀市で育つ。1979年に「Apartment」で女性写真家として初めて第4 回木村伊兵衛写真賞を受賞。2005年「Mother’s」で第51回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表作家に選出される。07年より現在まで続けられる被爆者の遺品を撮影した「ひろしま」も国際的に評価され、13年紫綬褒章受章。14年にはハッセルブラッド国際写真賞を受賞。
05年、ハウスオブシセイドウにて「永遠なる薔薇 — 石内 都の写真と共に」展、16年の資生堂ギャラリーにて「Frida is」展を開催した。
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森岡 督行
1974年山形県生まれ。森岡書店代表。文筆家。『800日間銀座一周』(文春文庫)、『ショートケーキを許す』(雷鳥社)など著書多数。
キュレーターとしても活動し、聖心女子大学と共同した展示シリーズの第二期となる「子どもと放射線」を、2023年10月30日から2024年4月22日まで開催する。
https://www.instagram.com/moriokashoten/?hl=ja