森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 : XXX 丹下健三と銀座
銀座8丁目の「静岡新聞・静岡放送東京支社ビル」は、丹下健三(*1)が設計したことで知られています。デザインが樹木のようと評されるこの建築。丹下健三は、なぜ、このようなかたちの建築を、この場所につくったのでしょうか。
丹下健三は、有機体のように増殖していく建築を目指したものでした。「容易に更新可能で、永遠に過渡期にあり、永久に新しい都市像」を提示しました。もしかしたら、銀座8丁目のこの場所ほど、その思想を実現する第一歩として、ふさわしい場所はなかったのかもしれません。というのも、銀座は碁盤の目に道路がはしっていますが、銀座8丁目のこの場所が、碁盤の角にあたります。オセロをイメージするなら、角を取れば、あとはひっくり返るというポジション。彼は、このような建築を、銀座中に増殖させるビジョンをもっていたと考えられています。実際にはそうなりませんでしたが、三原橋のたもとに、「静岡新聞・静岡放送東京支社ビル」と似たビルが一棟だけ建っています。私は、初めてこのビルを見たとき、「もしかしたら、誰かが丹下健三の意を汲んだのかもしれない」と思いました。
また、丹下健三には、「東京計画1960」という構想がありました。「丸の内から東京湾を横断し、木更津へと延びるリニアな海上都市を建設する」という内容。桁外れといってよい発想。これを換言すると、「東京をもうひとつつくろう」、ということだと私は思います。いま試しに、ネットで、「東京をもうひとつつくろう」と発言している人がいるか調べたところ、誰もいません。この点からも丹下健三のダイナミックな人物像が伝わってきます。現在、解体が進行している電通築地ビルを、「東京計画1960」の派生形態と見る向きもあります。7月11日現在、まだ社屋は残っていて、萬年橋の上、築地川銀座公園から眺めるのがおすすめです。
丹下健三は、銀座5丁目、みゆき通りと外堀通りの角に立地する壹番館(いちばんかん)洋服店(*2)で洋服を誂えていました。オーナーの渡邊新さんのブログを読むと、丹下健三がグレンチェックの生地ばかりを選んでいたことが綴られています。そういえば、新宿の東京都庁にしてもパークタワービルにしても、電通築地ビルにしても、どこか、ファサードがグレンチェックのようです。グレンチェックのグレンとは「渓谷」を意味します。丹下健三が思い描いた銀座とは、樹木のような建築が整然と並び、隙間の道路が、渓谷になっているような都市だったのかもしれません。グレンチェックのスーツを着て、外堀通りを歩き、「静岡新聞・静岡放送東京支社ビル」を眺める丹下健三の姿が浮かんできます。
*2 壹番館洋服店/1930年の創立より、格調ある洋服を心がけ注文紳士服をてがけ続けている洋服店。
中央区銀座5-3-12 壹番館ビル 1F
http://www.ichibankan.com