森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 : XXVIII 白洲正子と銀座
先日、白洲次郎と白洲正子が住んだ武相荘を、小田急線の鶴川に訪ねました。武相荘は、茅葺きの農家を改修した住まいで、次郎が愛用した腕時計や、書棚に収められた正子の本「など、生活をともにした品々を見ることができます。そのなかに、婚約時代、お互いが贈りあったポートレイトが大切に展示してありました。
次郎と正子が結婚したのは、1929年(昭和4年)。次郎は、ダブルのスーツを着用し、スナップダウンとおぼしきシャツにネクタイで、こちらを睨むように見ています。正子は、レースのついたドレスに真珠の首飾り、耳隠しのパーマで、微笑むようにこちらを見ています。また、そこには、それぞれの言葉が英語で添えてあります。次郎は「You are the fountain of my inspirations and the climax of my ideals」(君は僕の発想の泉であり、究極の理想だ)。正子は「To my beloved you. from Masako」(最愛の人へ)。
興味深いのは、正子のポートレイの下に、「YEGHI. Shimbashi TOKYO 」、「東京 新橋 江木」と印字してあることです。1929年頃、正子は最愛の人に贈る写真を、銀座におもむき、この江木写真館で撮ったということでしょう。江木写真館は、1880年に銀座六丁目に開店。1891年、銀座八丁目に六層からなる支店の社屋(江木塔)を建設しました。当時ここは銀座のシンボル的存在だったのではないでしょうか。ちなみに、1万円札の福沢諭吉の肖像写真も江木写真館の成田写真師により、ここで撮られたといいます。
ところで、白洲正子が銀座で染織工芸の店「こうげい」を始めたのは1956年、46歳のときでした。住所は、江木写真館の場所と目と鼻の先の銀座八丁目。「こうげい」をはじめるに際し、次郎が友人から資本金を集めました。『白洲正子自伝』には、そのときのことが、以下のようにあります。
「とても親切な夫だと私は感謝し、今でも感謝していることに変わりはないが、彼のほんとうの気持ちは、私がエネルギィを持てあまして、青山(二郎)さんや小林(秀雄)さんたちと毎日飲み歩いているので、仕事を与えたら少しはおとなしくなると思ったに相違ない。が、店を持ったくらいで私の骨董狂いや、文士(といっても数人の評論家だけだが)との付合いの面白さが半減するわけではなかった。」
正子が鶴川から銀座に来る場合、新宿で国鉄(現JR)に乗るにしても、渋谷で銀座線に乗るにしても、最寄りは新橋駅だったはずです。そして、新橋駅から「こうげい」に最短で向かうなら、外堀通り銀座八丁目角を通るはず。そのとき、白洲正子は、江木写真館で、撮影した日のことを思い出したりしたのではないだろうか。「君は僕の発想の泉であり、究極の理想だ」ということばとともに。「こうげい」が銀座にあったのは約15年のあいだ。そのなかで、そんな日もあったと思うのですが、真相はどうでしょうか。