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Column

2023.09.11

写真家・石内都インタビュー 時間を重ねて気づいた、写真の面白さ

文/小川知子

写真/室岡小百合(石内さん)

現在、資生堂ギャラリー(東京・銀座)で開催中の「石内都 初めての東京は銀座だった」展。本展覧会はウェブ花椿の連載「銀座バラード」にて石内さんが撮り下ろした銀座のモノと記憶の作品から生まれました。ウェブ未発表の作品を含め約30点が展示され、石内さんがとらえた銀座の時間、石内さんの銀座にまつわる記憶を感じることができます。
石内さんにとって、写真や記憶とは、そして写真家として生きる人生についてお話を聞きました。

――初めて銀座に来たときの15歳の自分をただ思い出すというよりも、今の自分と照らし合わせる経験になったとおっしゃっていたのが印象的でしたが、改めて知らない自分を知るというような感覚だったのでしょうか?

石内:知ってはいるんだけど、忘れてるから(笑)。思い出は別にどうでもよくて、記憶というのは、今の自分に必要なものだからよみがえってくるんだと思うんです。思い出じゃない記憶につながるということは、私が今何をやっているかということの原点に近いものだからなんじゃないかなと。外側の誰かが、その頃の私の記憶を引っ張り出すきっかけを作ってくれた、というのが今回の展覧会になりました。

――当時は、銀座にあった映画館に通っていたそうですね。

石内:多摩美の学生時代は映研に入ってもいましたし、子どもの頃から、私は読書がすごく苦手な人だったから、映画を観ていたんだよね。初めての写真集『絶唱、横須賀ストーリー』で、モノクロのイメージを、はじめ、真ん中、終わりがあるというひとつのストーリーに構成できたのは、やっぱり映画を観ていたおかげだと思う。

今回の展示をきっかけに、家の本棚を見ていたら当時の映画のパンフレットが出てきて、全部に観た日にちが書いてあって、自分がそういう人だったんだ、とちょっとびっくりしてね。とりたてて大切にしていたわけじゃないけど、それを捨てていない私を自分で発見したんですよね。

――特に近年は、現役で活躍し続ける女性の写真家、として声がかかることが多いそうですが、女性の資質、特性、個性が写真に向いているんじゃないかと石内さんはおっしゃっていましたね。

石内:カメラが軽くなったからとか小さくなったからとか、そういうことが理由でもないと思うんだよね。写真って、機械は当然あるけれども、身体の中から指先の続きとしてシャッターがあるという感覚が強くて。そういう意味でも、女性のほうが身体的に向いているなと思うんです。だって、同じ物を撮っても、出てくる写真はみんな違うでしょ。その視点のあり方は、女性のほうが自由なんじゃないかな。男性は、やっぱり仕事として、これを撮らなきゃいけない、というふうに考えるから、結構不自由なような気がする。女性ははじめから、「三界に家無し」なんて言われてたわけだから、自分勝手にすればいいわけ。

――女性写真家として、求められたイメージだったり、型だったりに、収められるような経験はありましたか?

石内:私の場合は、あんまりなかったかな。女っぽくなかったし、すごく突っ張ってたから(笑)。自分が女性であることも含めて、肩にいっぱい力を入れて、写真を撮ってた。でも、「1・9・4・7」で、同い年の女性50人に会ったときに、肩に力入れる必要ないなと思った。たぶん、彼女たちはもうひとりの自分、50人の自分だったんですよね。そもそも女性として生きるというのは、男社会で男とは違う女として生まれたところから、自分の女性性をどうやって理解したらいいのかわからないし、納得できなくて、傷を抱えて、本当に大変なわけですよ。だから、自分を表現する手段をもつということが必要ですよね。そして、経済的に自立することもすごく大きい。

――若い頃から経済的に自立することは意識されていたのでしょうか?

石内:うちは母が働いてたから、当然、男も女も働くものだし、手に職をつけないといけないと思ってた。だから、デザイン科を選んだわけだし。全然向いてなかったけどね(笑)。そうすることで、経済的な自立につながるから。でも、写真に関しては、習ったこともないし、手に職にはならないと思っていました。「APARTMET」で、女で初めて木村伊兵衛写真賞を受賞したとすごく話題になったとき、あらゆるメディアから仕事の依頼が来たんです。それで、1回、1社だけはやろうとやってみたんだけど、すごくつまらなかった(笑)。ちゃんと習っていないから、自信がないわけですよね。決まっている何かを撮ることも、「自由に撮ってくれ」と言われることも、どうやって撮ったらいいのかわからなくて。こんなつまらない仕事はやってはいけないと思った。最終的に全部断って、それからは25年はやりませんでした。

――だからこそ、今も写真を面白がり続けていられるんですかね。

石内:というか、私は写真家としての自覚もないし、写真家になりたいともなろうという気もなく始めたから。ただ、自分が何かよくわからないものを表に出したいということで、たまたま知人から譲り受けた暗室道具一式があって、消耗品だけを買えば写真ができたんですよ。それって、すごく安易だったんだけどね。

――むしろ必然のように思えます。そのまま写真家でいこうと決心されたタイミングはあったんですか?

石内:いや、決心なんかしないよ。写真がこうであるとか全くわからないし、写真が何秒で焼けるかも知らなかったの。だから、最初の個展の暗室作業では失敗も多かったし、印画紙もたくさん捨てたけど、知らないから楽しかった。本当に、ゼロからはじまって、一つ一つ自分で積み上げていったんです。でも、知らなくてよかったよね。学校も行っていないし、先生もいないから、わからないときは、写真をやっている友達に聞いたりしてました。写真家として、自分の写真はすごく面白いと思っていたけれど、記録したり伝えることは一切やりたくなかった。もっと違う写真を撮りたいと思っていたんです。でも、写真に対する考え方が最近、変わったんですよ。

――それはやっぱり、長く続けてきたからですか?

石内:そうですね。長くやっていると知らなかったことを知るようになる。やっぱり基本に戻る。若い頃は、伝える、記録するという写真の基本に反発していたけれど、ずっとやっていると、やっぱりどうしてもある物事の基本を発見するんだよね。その事実を、しっかり受け止めて面白がったほうがいいなと最近は思ってる。ただ、今考えると、やっぱり写真は自分には向いてたかもしれないと思いますね。暗室が大好きということもそうだし、多摩美の学生時代に「やだやだ」と言いながらもやったグラフィックデザインと、そこから染織専攻に変更してやった織物、染め物のプロセスや、いろんなものの基礎が全部こう、凝縮されてるんだよね、写真は。新しい表現だからこそね。

――そもそも写真ができてから、まだ200年も経っていないですもんね。

石内:そう。一番新しい表現だから、ハッキリ言って、何をやってもいいんです。だから、誰かから習う必要はない。自分で考えて、自分で決めればいい。これからのものだからこそ、まだまだ発展途中でもあり、今写真をやっている人は私も含めて、全員、歴史をつくっている、歴史に関わっていると私は思います。写真家として、私は時間を表現することに興味があるんだよね。時間は目に見えないし、掴めないし、一番どうしようもないじゃない。だから、空気とか匂いとか時間とか、目に見えないものを写真に撮りたい、とははじめた頃から思ってました。それを、写真に収めることは、歴史をつくっていくことに確かになるから。自分の外側にあるもの、つまり社会を撮るということは、自分を社会に照らし合わせて、自分自身も撮る、ということだと思います。

「石内都 初めての東京は銀座だった」
会期:2023年8月29日(火)~10月15日(日)
会場:資生堂ギャラリー
〒104-0061 東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル地下1階
tel. 03-3572-3901 fax. 03-3572-3951
https://gallery.shiseido.com/jp/exhibition/6383/
火~土11:00~19:00/日・祝11:00~18:00/毎週月曜休 (月曜日が休日の場合も休館)
入場無料

企画協力:森岡督行
協力:The Third Gallery Aya
「香水 花椿」(2022年)
「銀座のミタケボタン」(2022年)

石内 都

フォトグラファー

1947年、群馬県桐生市生まれ。神奈川県横須賀市で育つ。1979年に「Apartment」で女性写真家として初めて第4 回木村伊兵衛写真賞を受賞。2005年「Mother’s」で第51回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表作家に選出される。07年より現在まで続けられる被爆者の遺品を撮影した「ひろしま」も国際的に評価され、13年紫綬褒章受章。14年にはハッセルブラッド国際写真賞を受賞。
05年、ハウスオブシセイドウにて「永遠なる薔薇 — 石内 都の写真と共に」展、16年の資生堂ギャラリーにて「Frida is」展を開催した。

小川知子

ライター

1982年、東京生まれ。上智大学比較文化学部卒業。雑誌を中心に、インタビュー、映画評の執筆、コラムの寄稿、翻訳など行う。共著に『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)がある。
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