私たちが日々を送るこの現代生活における「豊かさ」とは何か、さまざまなフィールドで活動する方々へのインタビューを通して考える短期連載企画「現代生活の考察」。9月に発行した『花椿』最新号との連動企画でお送りしています。第四回目の今回は、独立研究家の森田真生さんのインタビュー。京都で暮らす森田さんが日常の中で感じる豊かさとは。本誌では一部しか触れていないインタビューを全文掲載でお届けいたします。
――新型コロナウイルス以降、働き方や生き方を見直す動きが加速し、都市に住む人たちにも、アウトドアや畑、地方への移住など、自然への関心が増えています。
森田真生(以下、森田)
実は、意外にも都市部が農村部よりも生物種の多様性が高いこともあります。極端な話、「辺り一面キャベツ」のような畑は、生物多様性は非常に低い。反対に、例えば都市では庭やベランダ菜園など、多様で小さな生態系が複雑なパッチワークを織りなしていて、ここを虫や鳥が行き交っている。『家は生態系』という面白い本もありますが、給湯器やオーブン、シャワーヘッドのなかなど、家のなかにもかなりたくさんの生き物がいて、人間が作り出した極限的な環境で、いまも進化し続けているそうです。人間が自然環境を撹乱することは、生物にとって脅威になるだけでなく、生物の新しいすみかを作ることもあるんですね。
せっかく人間が建物を建てるなら、壁に巣をつくるツバメのことを考えたり、道路を横断するカエルの都合も考えたり、人工物を設計するとき、人間以外の生物に対するケアを設計の過程に入れるだけで、都市はいまよりも多様な生物種を支えられる環境に生まれ変わることができるはずです。人間が他の生物種の邪魔をするだけでなく、人間が環境に介入することによって、人間がいなければあり得ないくらい、多様な生物が共存できる生態系をつくることは可能なはずなのです。
――森田さんは自宅で畑づくりをされていますね。日々、土に触れることで、何か感じることはありますか?
森田
ここ数年で「土」というキーワードに触れることが多くなりましたが、土への回帰に熱狂しすぎることには、自戒を込めて、僕は警戒しています。土は、生物の死骸と砂や粘土が混ざってできたものです。陸上に生物が進出したのはおよそ5億年前なので、38億年とも言われる生命の歴史のなかでは、意外と歴史が浅いんです。だから、土がないところにも生命はある。また、歴史学者の藤原辰史さんが『農の原理の史的研究』などの著書で指摘していることですが、土と人間の結びつきを手放しに礼賛する思想は、道徳主義や精神主義と結びついて、自国礼賛や異国への暴力を正当化するロジックに転落してしまいやすい。
だから、自然や生命を考えるなら、「土」「土地に根差す」といったところよりも少し視野を広げてもいいのではないかと思っているのです。
――森田さんが「学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場」として2020年に始めた鹿谷庵では、どんなことをしているのでしょうか?
森田
最初は、ただ子どもたちが集まってご飯をつくって食べる場所にしようと思っていましたが、友人や研究者も遊びに来るようになり、生態学者の友人が虫の話をしつつ外ではボール遊びしたり、土の研究者と一緒に大文字山を登ったり……何をするという目的は特にありません。大人と子どもの境界も、教える側/教えられる側の境界もなく、場所に根差して思考する。それがいいと思うんです。「一緒に山に登ったあの人って、土の研究者だったの!?」という驚きから、子どもたちの世界が広がることだってあるかもしれません。
――前掲書では鹿谷庵だけでなく京都で自然に触れる日常と、感染症などの不安定な社会状況が非常に対比的に綴られています。
森田
環境が自分の思考に与える影響はすごく大きいです。たとえば季節の植物について何かを書こうとするときも、以前は、自分で見た風景よりも、文学作品などを通して見た、頭だけで知っているような風景がまずは浮かんできたのですが、京都に住んでからは、冬に椿が咲いたのを長男が見つけて喜んでいたときの表情であったり、金木犀の香りに初めて次男が気づいたときの声であったり、自分自身の身体に刻まれた季節の記憶が、京都の風景とともに立ち上がってくるようになりました。最近は、いつも庭の手入れをしながら、思考を整理しています。心と、心の外側にある環境は、切り離せないと思うのです。
だからこそ、環境や社会制度の安定性が崩れていくと、それに対応して僕たちの心も崩れていく。このとき、どうすれば心を守ることができるでしょうか。ひとつは、感覚を閉ざしてしまうこと。外側で起こっていることになるべく接触せず、変わり続ける世界を拒絶して、「今日が昨日のコピーである」かのように「同じ自分」を生き続けようとする。
でも僕はできることなら、感じることを止めずに、しかも心を壊さずに生きていきたい。そのためには、自分の殻に閉じこもるのではなく、自分以外の存在にじっと耳を傾けながら、変化し続ける環境に合わせて、自分自身も少しずつ生まれ変わっていくしかない。自分にしがみつくのではなく、どちらかといえば、自分を手放していくのです。
――「自分を手放す」とは?
森田
僕の場合は、子どもたちの存在が大きいです。子育てにおいては、自分の思い通りに進むことなんてほとんどない。半ば強制的に、自分の予定を「一時停止」しなければならないことがしばしばです。それを拒むのではなく、受け入れてみようとしていくうちに、無理に自分を保とうとするより、自分を手放していく面白さを、少しずつ学んでいるような気がします。
「自分」には2種類あります。森田真生という個人として認識されている「小さな自分」と、仏教でいう不生不滅、つまり生じることも滅びることもなく、ずっと続いている生命そのものとしての「大きな自分」です。僕たちは「個人であり、同時に命そのものでもある」という矛盾を抱えています。ここで「自分は命そのもの」、つまり「自分より大きなものが自分だ」という方向にふりきれすぎるのは危険です。それは「国のために命を捧げる」とか、「地球のために人間はいなくなったほうがいい」といった、個人を過小評価する思想に転落していく可能性がある。しかし逆に「個人だけが自分だ」と小さな自分にばかりしがみついていても窮屈です。この矛盾に、生きることの難しさがある。
――矛盾を抱えながら、どのように生きたらいいでしょうか?
森田
矛盾とは、「AとnotAが同時に成り立つ」ということです。合理性を重視する近代的な思考は、基本的には矛盾を排除しようとします。しかし、生命というものを考えてみると、誰もが常に、自分でないものと混ざり合っている。自己同一性の手前に矛盾があるのが生命なのです。
矛盾を抱えたまま生きる生命らしさという点では、子どもたちに学び続ける日々ですね。
――確かに、子どもから学ぶことは非常に多いと感じます。
森田
何より、子どもたちは「いま」がいつも「新しい」ということを忘れていません。「見て、こんなに大きな石があるよ!」と子どもたちが驚くとき、彼らは本当に、いまそこにある石と、初めて出会っているのです。
――最後に、森田さんが考える幸福とは何でしょうか?
森田
素晴らしい対話や何かに夢中になっているとき、つまり、本当に現在を生き切っているとき、一度きりの「いま」が限りなく「永遠」に接近します。それが僕にとっての幸福かもしれません。
先ほど言ったように、僕たちは個人として生きています。個人という入り口を通してしか、大きな自分を表現することはできない。あくまで小さな「個」でしかない僕たちは、完全に「永遠」と一致することはない。それでも、日常のそれぞれの瞬間が、本当に「一度きり」だと自覚するとき、僕たちは限りなく永遠に接近することができるのだと思うのです。
科学的にはどんな事実も、『再現』ができなければ、誰も相手にしてくれません。一方で、人との出会いや大切な時間は、一度きりで、二度とない。最近、リチャード・パワーズの『Bewilderment』(邦題は『惑う星』)という小説をくり返し読んでいるのですが、再現可能であったり、反復可能であることだけが真実に至る道ではない、むしろ、『一度きり』であることを深く自覚することでこそ、僕たちは『永遠』に近づけるのではないか。この作品は、このことを、本当に美しい物語を通して教えてくれます。生命あふれる地球という星も、この宇宙における一度きりの偶然かもしれない。目を開き、耳を澄まして、この世界をよく見て生きていきたいですね。
独立研究者。京都に拠点を構えて研究・執筆のかたわら、国内外で「数学の演奏会」「数学ブックトーク」などのライブ活動を行っている。2020年の秋、東山の麓に遊びと研究と教育と学びのためのラボ「鹿谷庵」をオープン。ここで、子どもたちとともに、言葉と思考と感性の「エコロジカルな転回」を追求している。(公式ホームページより)
https://choreographlife.jp/