今年で開園100周年を迎える井の頭恩賜公園を舞台にした、瀬田なつき監督映画『PARKS パークス』が、その井の頭恩賜公園で撮影されていた頃、私は公園の近くにある事務所を間借りしていて、仕事に煮詰まると外の空気を吸いに公園を歩くことがよくあった。だいたいどの時間も、人の数は多かった。街に住む人だけではなかったろう。ベンチに腰を下ろすと、いろいろなところから来た人の、さまざまな声や音が聞こえた。私が好きだったのは、雨上がりの夜にそよぐ、湿り気が香る風の音だったが、森に抱かれた沈黙から立ち上がる、誰かと何かの音のすべてに耳を澄ますのがこの公園であり、この映画なのだと思う。
物語は、1960年代に密やかに生まれたある曲の、失われた後半部を、2017年に歌い直し、語り継ぐことを軸に展開していく。音楽と、その周りにいる人々と、それぞれが抱える事情と心象。フィクションと想像を用いて、二つの時代にまたがり、交錯させることを通して、舞台の底には公園という長い歴史が横たわっていることを、映画は照らしていく。その時観客は、過去はいつもなつかしいことを、そして無数の現在が集まることで未来になることを、知ることになるだろう。あるいはまた、現在はつねに何かが欠けていて、それを埋めようとする営みが、いつか未来の輪郭を描くのだ、ということも。
だからある意味では、音楽は、映画は、そして創作は、または人生とは、永遠に完成することもなく、普遍的にもなりえないのかもしれない。むしろそのことが、人が何かをなそうとする動機になるのだろう。おそらくこの映画はそのことを十分すぎるほどわかっていて、だからこそ始まりも終わりも、ゆるやかにほどけているのだけれども、一方で登場する人物たちはそんなことは知らずに、どうしようもなくぐだぐだになろうと、豪快に空振りしようと、ただ闇雲にいまを生きようとしている。その、何物でもないみずみずしさが、私にはすでに、なつかしく映った。
「誰かに聞いてもらってこそ、この歌は意味があるのだ」というような言葉が、映画には登場する。それはたぶん、歌をなした自分が何者であるかを誰かに知らしめたいということではなく、自分の一部が誰かのものになってほしいということなのだろう。いつかきっと、誰かに、届く、かもしれない。その可能性に賭けることが、歩みとなるのだろう。その時、私という存在は音の欠片となり、やがて風に吹かれて、公園を流れていくのだ。願わくば無数に散らばって、誰かの音とともに、過去も現在も未来も溶け合って、森に抱かれて。それが歌になり、歴史になるのだと、映画はそっと告げている。
『PARKS パークス』 4月22日(土)よりテアトル新宿、4月29日(土)より吉祥寺オデヲンほか全国順次公開 ©2017 本田プロモーション BAUS