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Column

2016.11.01

さいたまトリエンナーレ 2016

文/花椿編集室

ビエンナーレ、トリエンナーレが花盛りである。ビエンナーレは2年ごと、トリエンナーレは3年ごとを意味するイタリア語だ。美術界では1895年に始まったヴェネツィア・ビエンナーレが元祖で、20世紀になって世界各地に広まった。日本では2000年の越後妻有アートトリエンナーレ、2001年の横浜トリエンナーレを皮切りに各地で開催されるようになり、今では規模の大小を問わなければ優に20を上回る芸術祭が数年ごとに全国で行われている。

これだけビエンナーレ、トリエンナーレがもてはやされるのは、経済波及効果と地域の活性化が期待されるからであろう。例えば2013年の第2回瀬戸内国際芸術祭では、約6.4千万円の投資に対し、132億円の経済波及効果があったと日本政策投資銀行が試算している。しかしそれ以上に、瀬戸内や妻有のような過疎化と高齢化が進む地方にあっては、期間限定とはいえ、普段お年寄りばかりの地域に大量に若者がやって来ることの効果の方が大きいのだと思う。事実、私自身、瀬戸内でも妻有でも、展示施設の入り口でにこにこと若者と応対するお年寄りの姿を何度となく目にしている。

さて、今年新たに二つの大規模な芸術祭が期を同じくして始まった。「さいたまトリエンナーレ 2016」(9/24~12/11)と「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」(9/17~11/20)である。ビエンナーレ、トリエンナーレがやや飽和状態とも思えるなか、開催にどのような意義を見出すことができるのだろうか。スタートして1カ月が過ぎた、さいたまトリエンナーレに足を運んでみた。

Photo: NOGUCHI Rika

メイン会場は大宮駅、武蔵浦和駅、岩槻駅周辺の3カ所だが、県内のいたるところで関連プロジェクトが開催されている。内外のアーティストの作品を紹介することよりも、市民が積極的に参加し、自ら盛り上げていくことに主眼が置かれているらしい。総合ディレクター芹沢高志氏が掲げた「未来の発見!」というテーマからも、そのことが窺える。

さいたまビジネスマン

ヨーロッパのラトビア共和国出身のアイガルス・ビクシェは、過酷な通勤ラッシュに耐えるサラリーマンの姿を涅槃仏に重ね合わせたユーモラスな彫刻を制作。大きさはなんと9.6m!

武蔵浦和駅のメイン会場・旧部長公舎と岩槻駅のメイン会場・旧民俗文化センターは、いずれも10年ほど前から使われなくなった遊休施設だ。ビエンナーレやトリエンナーレは、美術館やそれに準ずる専門施設を会場とするケースと、今回のさいたまのような遊休施設、瀬戸内や妻有のような大自然の中を会場とするケースとに大別される。後者の場合はその土地の歴史や風土、あるいは文化的記憶などをリサーチして、深く地域に結びついた作品がつくられることが多い。

家と出来事 1971-2006の会話
松田正隆、遠藤幹大、三上 亮による、俳優不在の"演劇"インスタレーション。常に住人が入れ替わる公務員宿舎の特性に着目し、かつてそこに住んだ住人へのインタビューを基にした家族の物語を創造

さいたまもその点は同様なのだが、都市生活者としての視点に立って構想された作品が多いことが新鮮だった。芹沢ディレクターがトリエンナーレ開催に向けて十数人の住民にヒアリングしたところ、全員から「さいたまは何もないから」という答えが返ってきたと語っていた。確かに風光明媚な景勝地や歴史的建造物、温泉などの観光資源は少ないかもしれないが、東京のベッドタウンとして毎日約50万もの人が東京と往復するという巨大な「現実」がある。ディレクターと作家たちが生活都市としてのさいたまに着目したことで、他の芸術祭では見られないユニークな作品が生まれたように思う。

ステンレス、大宮
アレイ #3

ハンガリー出身のアダム・マジャールによる映像インスタレーション。ありふれた日常生活の一コマが、独自のスーパースローモーション撮影によって劇的に変容する

会場を巡る途中で「この建物にも使い道があってよかったね」という声を耳にした。多分近隣の住民なのだろう。もしかするとこれからの芸術祭は、外部からの来客を動員して活性化することを目指すのではなく、地域で暮らす市民がその土地の価値を再発見することを目指すべきなのかもしれない。そんなことを考えた、さいたまトリエンナーレであった。

さいたまトリエンナーレHP  https://saitamatriennale.jp/

 
(花椿編集長 樋口昌樹)