痕跡とは、少し前か、ずっと前に、誰かや、何かが、そこにいたという、確かな証拠だ。余韻とか気配よりももっと遠くて、あたたかさや匂いもほとんど消えていて、けれども、しっかりと残されているもの。人は痕跡を見ながら、かつて存在したものに思いを馳せることができる。何が、どんなふうに存在していたのか、想像を働かせることができる。だからそれは、手紙のようなものだ。
フランスの美術作家、ミシェル・ブラジーの展示「リビングルームⅡ」が銀座メゾンエルメスで開催されている。作品の多くは、身の回りのものや、植物や微生物などを組み合わせてつくられている。例えば、布の上を這うカタツムリの跡がドローイングのように残されている。植木鉢に突き刺さった箒が原料である植物に還ろうとしている。壁そのものが生きもののようになってワインを飲み干そうとしている。
彼の創造性の中心にあるのは現代文明への批判だと感じた。もっとも顕著なのが、型落ちした家電製品から植物が生えている作品だ。消費社会のサイクルの速さと、そんな人間の世界を上回る植物の生命力が表されている。同時に自然界へ拮抗する作家としての意思もある。チョコレートをネズミにかじらせて抽象画のようになった作品は、ネズミがかじることを想定している時点で、作家はネズミの動きを織り込んでいる。自然を操作する意図が表れている。
私が目を奪われたのは、曲線と滲みのほうだった。特にフェルトペンで描いた模様を漂白剤で滲ませた絵画は、美しかった。色が境目を侵食して、染みは不思議な模様になり、やさしくぼやけて、時間という概念を越えていく。過ぎ去ったものへの追憶が、あわいのなかに溶けていく。見えない手で、なぞったような、痕跡。もっとも、できれば漂白剤ではなく、動植物の力で滲ませてほしかったけれども。
これからなにかのかたちになろうとするのか、なにかのかたちを終えたものなのか、琉々にはわからなかった。言葉はない。けれどその代わりに、影たちは琉々のからだにそっと触れて、受容の印にするのだった。
蜂飼耳『転身』(集英社)
痕跡を残した手を想像する。なんとなくそれは、骨董や工芸を見る態度に似ているように感じる。なぜなのか、理由はわからないけれども、なつかしいと、心にじわりと思い、あり得たかもしれない過去や、自分との関わりを浮かべる。ブラジーはそんな態度を意図しなかったかもしれない。きっとそうだろう。だけどそれでもよいのだろう。作品は作家の手を離れ、私のなかに入っていった。
COVER PHOTO / Installation view / Photo credit: ©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès