ずっと昔、まだ日本という名前も国もなかった時代に、美しいという感情がどうやって生まれて、どんな形に残されたのかを知りたくて、私は奈良を旅した。今年の春のことだ。
古代信仰と呼ばれるものがある。まだ宗教という概念が輸入される前、言ってみれば「宗教以前」の世界のことだ。特定の神や教義、教祖や経典もなく、人々は自然の万物に宿る霊魂や精霊、そして自然そのものと、太古に連なる自分たちの祖先を敬い、日々の生活を祈った。そうした「八百万の神々」は、像のような人工的につくられたものよりも、石や木のような自然に宿ったものが多かった。
奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社は、いまなお古代信仰が残る、最古の例のひとつだ。この国の神話に登場する大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀るが、神社には本殿がなく、背後に控える三輪山に向かって人々は祈りを捧げる。つまり、山そのものが神体にあたるのだ。
事前にそう聞いて、どれだけ崇高な山なのかと思っていたが、実際に訪れてみると、春が芽吹く頃という時候もあったのか、ひりひりした緊張感は少しもなく、むしろ山全体が車座になって談笑しているような、穏やかで、和やかで、調和に満ちた雰囲気が漂っていた。木々は風に吹かれ、ホトトギスはそこかしこに鳴き、葉の重なりの隙間から日の光が体に漏れ注いでいた。古代の神々とは、さまざまな背景を持つ人々を威厳や力強さによって平伏させるのではなく、調和によって解きほぐすものであったのかもしれない。私のような東京からの異邦人にも、すっと、車座の間に居場所を与えられたような気がした。
大神神社でもうひとつ知られるのが、「巳の神杉」の名で知られる、杉の巨木だ。三輪山に宿る大物主大神は蛇に姿を変えて現れることもあったといい、「この杉の根元の洞には白蛇が棲む」という言い伝えから、杉そのものも祈りの対象となった。蛇は水神、雷神、農業や五穀豊穣の神とされるが、この杉も似たような意味をもたらされたのだろう。
杉というと「真っ直ぐに生えた一本」というイメージがあるが、この杉は樹齢のためかやや傾斜しており、葉も一方向に多く茂っている。一番の特徴は複数の幹に分かれていることだろうか。その姿にどこか、人が手入れした匂いのしない、自然体の野性を見たような気がした。だけど、巨木ではあるが居丈高な佇まいは微塵もない。脳裏に焼き付くというよりは、人々の暮らしと寄り添い、時々ふと思い出される……そんな感じだった。
人間は人間だけではやってはゆけない。人間には神が要る。その神とは教義も教典も教会も教祖も不要な神であるが、その神の具現である自然が要る。
谷川健一『日本の神々』(岩波新書)
この地でいつ頃から古代信仰が始まったかは、はっきりしない。ただ三輪山の周辺では旧石器時代~縄文時代の遺跡も数多く発見されており、その頃からこの一帯で人々が集落を営んでいたことは確かなようだ。
私は境内で南天の苗木を買った。苗木はいま、家のベランダで、ゆっくりと、力強く、育っている。この木はきっと、小さな思いをいくつも受け止め、重ねていくのだろう。そうして少しずつ、背を伸ばしていくのだろう。