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Column

2021.03.25

音楽的小休止のすすめ―映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』

文/花椿編集室

仕事や勉強で慌ただしい毎日。週末でも心の片隅には心配事があり、ふと思い出すと途端にそわそわしてしまう。休むことってむずかしい。――そんな忙しい毎日を送る私たちのこわばった頭と心に対し、音楽でアプローチを図るのは前衛的ポスト・クラシックを代表する作曲家、マックス・リヒターだ。“眠り”という根源的なテーマに挑んだ作品『スリープ』、そしてその作品をめぐる一連の試みをドキュメンタリーで記録したのが今回ご紹介する『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』である。

©2018 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin All Rights Reserved

リヒターの作品『スリープ』は204のクラシック楽曲からなるアルバムである。演奏時間は8時間23分。リヒターが1995年からあたためていた「“眠り”のための音楽」というアイデアに、人類学者で映像作家でもあるパートナーのユリア・マールの着想を交え発展させ、2015年に完成した。イメージしたのは母親の子宮の中で音楽を聴くような体験。神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンに相談をしながら、眠るときの脳波に寄せて全編にわたり低周波で作られている。その音色は、マールが「平易な音楽語法でできている」というようにシンプルな音の反復が連なり、浅瀬に打ち寄せる波のように、また風に大きくたゆたう樹木の葉のように穏やかに響く。

リヒターとマールにとっての目下の関心事は、この8時間を超える作品『スリープ』の意図をどう語るか、ということだった。公演という形式を採りながら、しかしこの“コンサート”は従来のただ「座って聴く」というかたちにはしなかった。会場には座席の代わりに無数の簡易的なベッドを並べ、「座っていても、歩き回っても、もちろん眠っていてもいい」というスタイルに。本作が完成した2019年の時点で世界18公演を行い、アントワープでは荘厳な聖母大聖堂で、ロサンゼルスでははじめて屋外の会場で月夜と朝日を眺めながら開催された。

©2018 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin All Rights Reserved

リヒターと楽団が奏でる音楽を聴きながら、見知らぬ人同士が隣り合わせで眠る。その特別な機会に興奮するかたわらで、ある人は他者の偏見の目に怯え、ある人は孤独に沈み、またある人においては忙しない現代社会における芸術の可能性を危惧しているのだった。一見他人のように思うかもしれない人々も、皆、生きることに不安を抱えている点では同じ。リヒターは、その音楽を聴きに集まる人々こそがこの『スリープ』の主題であるという。

「(この作品では)自分の起源や根源とのつながりを感じてもらうことを目指している。誕生からやり直すような感覚だ」。「生活は日々、慌ただしくなる。あらゆる物事が休まず前進する。それが現代の生活だ。加速し続ける。企業にとっては好都合かもしれないが、個人にとってはどうだろうか? わからない。だから無言の抗議の意味を込めこの作品を作った。現状を再検討するためだ。少しの間慌ただしく流れる日常から離れて見つめ直す機会を与えたい」。

リヒターが提供するこの場は、個人が音楽をとおして集団となるようで興味深い。マールはいう。「重視したのはこの作品がコミュニティーとつながりを生み出すこと。今の私たちに必要なものよ」。

©2018 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin All Rights Reserved

ドキュメンタリーは『スリープ』に結実するまでのリヒターの試行錯誤の日々もとらえる。芸術家として生きていくことの厳しさ、それを支えるパートナー・マールとの絆について。そこにリヒターの音楽に影響を受ける人々の姿とことばが印象的に折り重なる。

「楽譜に書き込まれる音は過去と未来に起こる全事象と関わっている」というリヒター。一連の試みはすべてコロナパンデミックが始まる前になされていたものなのに、まるで”その後”を予期していたかのような具合で、いまの私たちに迫るものがある。本作『スリープ』は「よく眠るための音楽」といわれている。けれど本作の意図はもっと深い。音楽を自分自身が体験すること、その内省に意味がある。眠りの夢の中で出会う自分の心に気づくこと。それよって自身の変容を試みるということが、混乱した時代に生きる私たちに必要なのだとリヒターは示す。

ひとりでじっくり、または大切な人と寄り添いながら観たくなる映画である。ぜひ劇場で臨場感を味わって、余韻のままにご自宅でゆっくりと音楽を追体験、がおすすめです。観て、聴いて、そして休もう。

『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』公式トレーラー

『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』
監督:ナタリー・ジョンズ
製作:ステファン・デメトリウ、ジュリー・ヤコベク、ウアリド・ムアネス、ユリア・マール
撮影:エリーシャ・クリスチャン
出演:マックス・リヒター、ユリア・マール、(ソプラノ)グレース・デイヴィッドソン、(チェロ)エミリー・ブラウサ、クラリス・ジェンセン、(ヴィオラ)イザベル・ヘイゲン、(ヴァイオリン)ベン・ラッセル、アンドリュー・トール
公開:3月26日(金)から、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷・有楽町ほか全国ロードショー

2019年/イギリス/英語/99分/シネスコサイズ/原題:Max Richter’s Sleep/映倫:G/字幕翻訳:佐藤南/字幕監修:前島秀国/配給:アット エンタテインメント

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