小品から始めよう。
展示室の片隅に置かれた、高さ10センチにも満たない小さな器。粘土の素焼きで、白っぽいベージュの色が、この列島とは違う風土を強く思わせる。細くなった口のほうには、格子の線が斜めに、手触りを残したまま刻まれている。持ち手は指先でしかつまめないくらいに小さい。しんなりとふくらんだ胴には、十分な余白を残して、何かの模様が刻まれている。格子よりも丁寧な彫り方で、のびやかで、意味ありげなパターン。咄嗟にパウル・クレーを連想した。《クレタ聖刻文字が書かれた水差し》と説明が添えてあった。文字はいまだに解読されておらず、用途もはっきりしないそうだ。
東京国立博物館ほかで順次開催される特別展 『古代ギリシャ -時空を超えた旅-』は、エーゲ海周辺の島々を主な舞台に、新石器時代からミノス、ミュケナイ、アルカイック、クラシック、ヘレニズム、ローマと、紀元前6000年代から紀元2世紀頃までの各時代の歴史と文明をたどる展示だ。
小さな生活のなかで育まれた文化は、都市や国家のように共同体が大きくなるにつれて、より時間と技術とお金が注がれて、人々が信奉する神々や数々の英雄、時の王や街の有力者に捧げられていく。力強さを讃えた大理石の彫刻、神々しい物語が描かれた宮殿のレリーフやアンフォラ、植物をかたどったきらびやかな金の冠、細工を施した金銀の華やかな貨幣……そうした品々は時代を経るにつれて精密さを増し、大きな力に守られることによって後世にまで伝わり、ルネサンスを始め幾多の芸術の重要な規範となってきた。
富と力が結集したいくつもの遺物のかたわらで、冒頭の水差しは、そうした大きな力が後ずさって、つくった人や用いた人の、個人的な想いを漂わせているようだった。ほかにもあった。女性や子どもの墓から見つかった、名も知れぬ女性の像。鳥が大きく胸を張ったように、豊かな丸みを帯びた水差しの、土の風合い。それから、女神を描いたフレスコ壁画の、風化してかすれた、茶色がかった青の色。戦士が身に付ける青銅の脛当てに、深く沈んだ錆。私は次第に、雄々しい歴史への考古学的な興味を離れて、日々の生活のなかに存在した小さな品や、威光や栄華や権勢が剥がれ落ちて、移ろったものに、美しさを探していた。想像で埋めるようにして。
僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。
小林秀雄「無常という事」(新潮文庫ほか)
途方もなく長い時間をかけて、強くて、猛々しい意味が、だんだんと薄れていって、手の届かないくらい上のほうから、降りてくる。与えられるのではなく、引き戻そうとして、こちらから伸びていく。過去は解かれ、美しくなる。
COVER PHOTO / 「赤像式パナテナイア小型アンフォラ ボクシング」前 500 年頃 アテネ国立考古学博物館蔵
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