ささたくや君の料理は、2回食べたことがある。
ささ君は世界中を旅した後、高知県・四万十の古民家に移り住み、自給自足の生活を目指している。料理は彼の本職ではないけれど、各地で不定期で行っている「TABI食堂」というレストランは、たまに東京にも出張してやってくる。私はそこに2度ほど行ったのだ。
TABI食堂は食材に熱を加えずに生のまま調理する、いわゆるローフードのレストランだ。ある日のメニューは、「切り干し大根バーガー」。何かで和えてねっとりした食感になった切り干し大根を、ピタのようなものに包んで食べる。別の日は、「春のぶっかけ甘酒大根麺」。麺のように細長く切った大根を、常温の甘酒のスープにつけて食べる。偶然、大根が続いたけど、味の印象は全然違った。
「味」には、甘い、辛い、酸っぱい、苦い、渋い、といった要素があって、ほかのオーガニック系のお店なら、それぞれの味の純粋さを高めていくことが多いけど、ささ君の料理では、それぞれをそれぞれの味のまま丁寧に重ねていて、特にメインとして出されるサラダは、細かく切られたいろいろな野菜や(フルーツやナッツに混じって海苔が入っていることもある)、葉っぱと葉っぱの隙間にある空気の層まで、やわらかく畳まれている感じがする。そのふわふわした豊かな感触は、日の光をたっぷり吸った布団のようだった(余談だけど、「布団のよう」という比喩は、農を営む人がいい土を指して言うときにも聞いたことがある)。
先日刊行された、ささ君の著書『サラダの本』(エムエム・ブックス)を読んで、レシピのコツだけでなくものごとの考え方を知ることもできた。少しだけ紹介すると、ローフードの食事には「生きた命を生きたままいただくことで、自然の営みと、よりダイレクトにコネクトできる」という意味があるそうだ。傷つけず、押しつけもせず、お互いの居場所をつくり、支え合う。いまの文明社会も自然界のあり方のように、やわらかく、美しく調和していたら、と思った。味とはそういう、思想のような、歌のようなものなのだろう。体の全部と、思いの隅々まで、想像をめぐらせることなのだろう。
日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、(中略)私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)
ささ君のサラダの味をまた思い出した。ローフードなのに、食べ終わった後になぜか汗が出て、次いで余計にお腹が空いたように感じてしまったのは、たぶん体じゅうの細胞が元気になったからだろう ―そう思ったら、なんだか笑ってしまった。
Cover Photo / グリーンサラダ ビーツと甘酒のソース ブドウの豆乳ヨーグルト漬け