国東半島にはじまり、宮古島、悪石島とめぐった今回の旅。ともすれば日本の周縁部ともいえる彼の地で私が見たのは、むしろそれら周縁における文化の豊饒さと、そこから形作られる日本の多様性そのものであった。
そしてこの旅の終わりに辿り着いたのは、奇しくも日本の中心である東京。旅の終着点で私を待っていたのは、現代において周縁と中心を結びつける、一人の男だった。
2016年春、リトルモアから『みやこ』と題した一冊の不思議な画集が出版された。まるでCGのようにも宗教画のようにも見える繊細な線画。描いたのは、宮川隆という男である。
宮川は1955年、宮古島に生まれ、1972年、沖縄返還の年に上京。以降40年以上、東京でグラフィックデザイナーとして活動している。しかし宮川には、長い間世間に知られなかった、もうひとつの顔があった。それは宮川が、宮古島に代々伝わる霊能者カンカカリャだということである。悪石島から帰還した私は、都心にある宮川のデザインオフィスを訪ねた。
――宮川さんが東京に出られたきっかけというのは何だったんでしょう。
「ちょうど自分が高校3年の時に沖縄が返還になったんです。それで日本かアメリカかとなって、自分はアメリカはもう飽きたという思いがあった。でも、いきなり日本といわれても教科書とか本でしか知らないので、とにかく日本で生活する、ということをしようとしていた感じですね……。そのうちに編集者の後藤繁雄と知り合って色々やるようになって」
――工作舎に入られたんですよね。
「そうですね、ある時誘われて。デザイナーのお手伝いをやれと言われて。その後は後藤繁雄とデザイン会社を5~6年やって、でも彼も編集の仕事をやりたいということで別々の道へ行ったんです。それで、ちょうどその頃から始まっちゃったんですね……」
宮川が「始まった」と表現するそれこそが、この不思議な線画を描くことであった。
「30半ばくらいで始まっちゃって、それまでほとんど僕の資質にないものが突然でてきてしまったというような感じで……」
――それは仕事中なんかにも突然始まってしまうものなんですか?
「うん……、急に始まっちゃうと、もう仕事にならないんですよね。レイアウトの上に描いてしまうこともあるし、とにかく手が、普段仕事している手ではなくなってしまう。本当に自分がおかしくなったんじゃないかと思いましたね。急に自分とは違う人格が、第三者が入ってきてしまったような感覚になったんですよね。ほとんど発狂みたいなものでした……」
宮川は当初、「発狂した」とすら考えたが、やがてひょんなきっかけから、その「手」が描いた線画は、自らのルーツへと遡行していく道しるべとなっていく。
「野村恵子さんという写真家がいるんだけど、彼女に会った時に、宮古島に撮影に行くと聞いて。なんだか分からないけど、絵を描いて、カンカカリャのおばあさんに渡してくれと頼んだんですよね。そしたら絵を見たおばあさんからすぐに電話がかかってきて、僕がやっていることと、カンカカリャのおばあさんがやっていることは全く同じだと……。
カンカカリャのおばあさんたちも最初は気が狂ったと言われて、病院に行ったりもしたそうです。でも聞くと、そのおばあさんも最初は違う人に見出されたというんですよね」
カンカカリャ(神懸かり)とは宮古島に古くから伝わる霊能者である。東北のイタコや沖縄のユタ同様、宮古島には現在もそうしたカンカカリャが僅かながら存在するといわれる。
――いきなりカンカカリャだと言われて、戸惑いはなかったんですか。
「子供の頃は、普通に家の周りでもカンカカリャのおばあさんを見ていたんですね。例えば何か相談事だとか皆で決めないといけないことがあるとカンカカリャを囲んで皆で話すんです。でも自分の最初の体験は、自分の向かいの家のおじさんが、ある日突然カンカカリャになってしまったことがあって。その変化を間近で見ていて、自分もあのタイプなのかなとは思いました」
――これは何かを伝えるために描かされていると思いますか?
「色々あると思うんですけど、基本的にはそういうことなんじゃないかなと思ってます。自分がやっていることを考えると、動物から人間に至る過程を逆に辿っていっているような、退化するプロセスを辿っているような感じがありますね。その先にある、存在一般へと辿っていくような……。でも直接言葉を自分に描かせるようなことだけは、やめてくれと思っていますけどね(笑)」
宮川は自らの行為を「自動書記のような」と表現する。通常、自動書記といえばふたつの意味がある。ひとつは霊能者が憑依された状態で、何かを筆記すること。そしてもう一つは、20世紀初頭、ヨーロッパのシュールレアリストたちの間で行われた自動書記である。
両者の行為自体は似ているが、前者がいわゆる神懸かり的な霊力によって筆記するのに対して、後者は当時流行しはじめていた精神分析学の影響を受け、無意識によって筆記するという違いがある。
宮川に絵を描かせているものが何なのか、それはまだ宮川自身にもわからない。しかし宮川がグラフィックアーティストであり、同時にカンカカリャであること、その二重性こそが宮川にこれらの絵を描かせているように思えてならなかった。インタビューのはじめに、宮川はこう語っている。
「ずっと、よくわからないんですよ。アイデンティティというか、日本というのが」
戦後という激動の時代に沖縄に生まれ、返還とともに日本へと「来訪」した宮川。日本の東京にいる自分と、アメリカの沖縄にいた自分。デザイナーとしての自分と、カンカカリャとしての自分。そうしたいくつもの二重性の間で揺れ続けた彼の手は、いつしか無意識に、あるいは神懸かりに、描けぬものを描くために筆を握った。
大胆にも繊細にも、シンプルにも複雑にも、奇妙にも美しくも見える宮川の不思議な線は、遠く離れた二つの点を、結んでいるように見えたのだ。
(了)