那覇を飛び立ってから1時間。機内サービスのジュースを飲み終える間もなく、飛行機はゆっくりと降下をはじめた。眼下には、エメラルドブルーの海と珊瑚の白い砂浜が広がる。宮古島に着いた――。
8月半ば、東京は夏のピークを迎えて、まるでバンコクのように蒸し暑かったが、宮古島は日差しが強いせいか湿気は少なく、東京よりもいくらか爽快に感じたのは意外であった。
宮古島を含む宮古列島は沖縄の南西約300kmに位置する人口5万5千人余りが暮らす列島。石垣島と並んで沖縄県のほぼ南西端、すなわち日本列島のほぼ終端部に位置している。
本州よりも台湾に近く、実際、約1万年前の最終氷期にはアジア大陸と地続きであったことが確認されている。発掘される古代の遺物もまた、この島が日本よりもむしろ、大陸側の文化圏に属していたことを示している。つまり極東日本の南端にして、アジア大陸への玄関。それが宮古島の位置である。
もっとも、今回の旅の最終目的地は宮古島ではなかった。この時期、鹿児島の離島で行われるある奇祭を見るため、まず中継地として沖縄に来る必要があったのだ。しかし私はあるもののために、この宮古島に降り立ったのである。とはいえそこに行くのはまだ早い。日没の時間まで、ひとまず島を散策して時間を潰すこととした。
日本最南端の神社とロシア人民俗学者の記念碑
最初に訪れた場所は宮古神社。島唯一の神社にして、日本の最南端に位置する神社である。市街地を見下ろす小高い丘に建っていて、青空に映える首里城のごとく真っ赤な瓦屋根と、シーサーにも似た狛犬、そして神社の裏手に「奥之の院」のように立つ御嶽の碑が、沖縄らしいエキゾチックさを引き立てる。前回の旅で訪ねた国東に似てここもまた、自然崇拝と神社は何の違和感もなく習合されていた。
神社の下手へと回ると、場に似合わない奇妙な石碑が目に付いた。それは1915年に来日し、宮古島を研究したロシアの民俗学者ニコライ・ネフスキーの顕彰碑。当時、ネフスキーは柳田國男や折口信夫とも交流し、日本民俗学の黎明を支えた人物として知られる。
ネフスキーは生涯を通じて宮古島にこだわり続けたが、それはこの島の文化風習が、日本のどこよりも古来の伝統を維持していたからだと記している。
言語学者でもあったネフスキーは、宮古島の古語と日本の古語がによく似ていることを指摘し、特に宮古島の人々が虹をティンパウと呼んでいたことに着目した。もともと宮古島ではティン(太陽)を母神、パウ(蛇=ハブ)を父神とする伝説があり、その二つが組み重なり立ち上るものが「天の蛇」、すなわち「虹(にじ)」というわけである。
そしてネフスキーはこの「蛇」と「虹」という漢字の類似性に着目し、日本語の「虹」が宮古島の「天の蛇」に由来すると結論しているのだ。
15年に渡る日本滞在後、ネフスキーはソビエト連邦共和国となった祖国に帰国。しかし1937年、日本のスパイである疑いを掛けられ、国家叛逆罪で銃殺刑に処される。日本における民俗学研究の先鞭をつけた男の、あまりに唐突な最期だった。
津波の記憶を伝える、人魚伝説の残る島
宮古神社を後にした私は、日没まで適当に島をドライブしてみることにした。
まずは伊良部島へ。目的地はその隣、下地島にある奇景である。看板に従い、下地島空港のそばを抜けて車を降りると、そこには一面、マングローブの林が広がっていた。小さな入り口がをくぐって、まるで洞窟のような林を抜けると、今度は一面にゴツゴツとした石灰岩の岩場が続く。
そして岩場を歩くことしばらく。、突然目の前にぽっかりと開いた奇妙な池が現れた。10mほどの距離を挟んで二つ並ぶこの池は、通り池と呼ばれる。石灰岩の鍾乳洞が崩落してできたものとされ、大きさは海側の片方が直径75m/水深45m、もう片方が直径55m/水深25m。吸い込まれるような深い青である。
実際、宮古諸島随一のブルーホールとして知られ、格好のダイビングスポットでもあるのだが、その言い伝えもまた神秘的な伝説に彩られている。
曰く、遥か昔、この場所に暮らしていた漁師が人魚(ジュゴンとされる)を捕まえて食べようとした。漁師は人魚を半身にして、半分を隣家に分けた。すると海の神が怒り狂い、大津波を起こした。結果、二つの家は消えてなくなり、代わりにこの二つの大きな池が生まれたという。
これはあくまで伝説だが、大津波の由縁たりうる史実として、1771年、この周辺では八重山地震が起きている。M5.5を記録したこの地震は「明和の大津波」を引き起こし、八重山・宮古あわせて約12,000人の命を奪った。この通り池と似た伝説は石垣島にもあり、そちらは捕まえた人魚を放したために津波がくることを教えられ、人々が助かったという報恩譚となっている。
現実と非現実の間を行き来する透明な「モノリス」
そうこうしているうちに日が暮れはじめ、私はいよいよ目的地へと向かった。場所は宮古島のほぼ北端。沿岸部を迷いながら探すことしばらく、その物体はぽっかりと浮かぶ島のように、海に佇んでいた。
まるで透明なモノリスとでもいうべきのようなこの奇妙な物体は、現代美術作家の森万里子がこの地に設置した「サンピラー」という作品である。
サンピラー(太陽柱)とはもともと日の出や日没時に生ずる垂直な太陽の光芒を指す。森はこの狩俣を訪れ、七光湾という名にインスピレーションを受けたのだろうか、2011年、プリズムの柱のようなこの作品を設置した。今後、手前にムーンストーンと呼ばれる作品を設置し、冬至の日になるとサンピラーが落とす影がムーンストーンへと重なる、パブリックアート作品として完成することが予定されている。
時刻は午後6時過ぎ。私はサンピラーがよく見える海岸へと降り立って、じっと日没を待ち続けた。やがて空が橙色から藍色へと変化し始めた頃、海面に奇妙な光芒が映し出された。日没の長い光はサンピラーで屈折し、自然とも人為とも言い難い不思議な光芒を形作る。
やがて太陽が海へと飲み込まれる頃、サンピラーはその光と影を同時に伸ばして、まるで稀有な自然現象か宗教的な奇跡現象のような光芒を生んだ。天の光が作り出す蛇ーーかつてネフスキーが記したように、それは蛇のようにも虹のようにも見えて、現実と非現実の間で、奇妙に波に揺れていた。
(南国奇祭探訪2に続く)