二日目に訪れたのは国東半島の北東に位置する岩戸寺であった。六郷満山末山本寺の一つに数えられるこの名刹の入り口には、やはり国東名物である、一対の仁王像が立っている。
仁王像は室町時代中期、1478年に造られたもので、在銘の丸彫り彫刻(一つの石から削り出された彫像)としては、国東で最も古い像として県の有形文化財に指定されている。
見れば確かに、筋肉隆々とした仁王像の強面な迫力は残しつつも、長い時間をかけて風雨で削られ、丸みを帯びている。そのどこか優しい立ち姿は、気の遠くなるほどの間、じっとこの地に立ち、人々の営みを見つめ続けたことを物語っている。果てはさらに数百年の時をかけて風雨で身を磨き、いつかひとつの丸い石へと還るのだろう。
天の岩戸と来訪神の奇祭
仁王像にそれとなく一礼し、桜が並ぶ広々とした参道を抜ける。そうして再び長い石段を上って、まずは奥之院へ。
ここ岩戸寺の石段は昨日訪れた文殊仙寺や成仏寺よりも一層苔が深く見える。まるで緑のカーペットを敷いたような石段を、息を切らせて上りきると、素朴で飾り気のない、いかにも山寺といった風情の古い神社が建っていた。
そのすぐ脇には、おそらくこの寺の由来である、天の岩戸を連想させるような観音開きに合わさった岩屋があり、簡素な寺とは対照的に、ダイナミックな光景をつくりだしていた。
神社の境内もまた芝生のように苔が埋め尽くす。周りにゴロリとある石塔にも苔がしぶとくまとわりついている。すでに国東で見慣れた光景だが、ここは一層苔が深くて、視界という視界を緑が埋める。
石と植物の境界も曖昧ならば、自然と人工物の境界も曖昧である。その不思議な光景は、ちょうど東南アジアのアンコールワットのような、自然に飲み込まれつつある古代遺跡の姿さえ連想させた。
山を背に下を見下ろすと、茅葺き屋根の古民家のような建物があることに気づく。聞けば、この建物は寺社ではなく、国東の奇祭、修正鬼会(しゅじょうおにえ)[※1]が執り行われる講堂だという。
岩戸寺本堂へと下りて、特別に、寺の中に安置された修正鬼会に使う面を見せてもらう。
一説に、修正鬼会の鬼は、東北のナマハゲや沖縄のパーントゥ同様、異界から訪れた来訪神のイメージが変化したものともいわれている。なるほど、その姿は我々がよく知る仏教的な「鬼」のイメージよりもむしろ、バリやタイ、チベット、ミャンマーなどで眼にした、アジア的な精霊の姿を連想させた。
今となってはこの鬼がどこから来たものかは定かではないが、浅黒い顔に、丸々と大きく見開かれた眼、そして広い鼻腔をもつ鼻は、ひょっとすれば東南アジアあたりから流れ着いた来訪者のイメージが変化したものにも思える。
恐ろしくもあり、ユーモラスでもある鬼の相貌は、神仏習合はもとより、古くは渡来人からの文化も混合された、“日本の異郷”としての国東を今に伝える、いわば最後の証人なのかもしれない。
世界を歩いた隠れキリシタンと追走の道程
岩戸寺を後にして訪れたのは、国東半島の北東、沿岸部に位置する国見町岐部。車を降りると、国東で初めて眼にする、質素なキリスト教会が視界に飛び込む。その横にはまっすぐ海を見据える神父の彫像がある。
これは1965年、自身もカトリックでありキリシタンの受難をテーマに数多くの作品を残した彫刻家、舟越保武の手によるものである。そしてその横には世界地図が記された看板があり、こんな言葉が書かれている――「ペトロカスイ岐部神父の歩んだ道」。
銅像のモデル、ペトロ・カスイ岐部は、1587年(安土桃山時代)、この地に生まれ、江戸時代にかけてカトリックの司祭として生きた人物である。
国見町岐部は古くから漁港として栄え、国東における文化流入の地であった。当時まだ日本に伝わったばかりであったキリスト教も、国東では最初にこの地にもたらされた。ペトロ岐部はキリスト教信者の両親のもとに生まれ、後世に語り継がれる壮絶な人生を歩むこととなる。
ペトロ岐部は19歳でイエズス会への入会を志すが、江戸幕府によりキリスト教禁止令(禁教令)が発布されると、1614年、マカオへと追放される。そこで司祭を目指すが挫折し、1617年、イエズス会本部のあるローマで司祭になることを夢見て、破天荒な旅に出た[※2]。そして1620年、ついにローマへと到達し、司祭叙階を果たした。
その後数年間、彼はヨーロッパや東南アジアで宣教活動をしたのち、マニラ経由で日本へと帰還。時は1630年、彼が日本を出てから実に16年の時が流れていた。その頃日本ではキリスト教に対する迫害がさらに厳しさを増しており、彼は隠れキリシタンとなったが、1639年にとらえられてしまう。しかし激しい拷問を受けても棄教を拒否し続け、最期は腹を火であぶられて処刑された。
当時の日本人として、前例のない旅を成し遂げて司祭となり、最期まで異教者として全うしたその強烈な生き様は、銅像の物静かで凛とした表情からはおよそ想像もつかない。しかしあまり知られることのない彼の人生は今なおここで語り継がれ、訪れた者に深い感銘を与える。
2014年、国東半島芸術祭の準備で国東を巡った現代美術作家の川俣正もその一人である。川俣は、ここでペトロ岐部のエピソードを知ってインスピレーションを受け、銅像が立つちょうど後ろの小高い丘に「説教壇」という作品を設置した。
川俣の作品は、海岸のデッキに似た構造が、幾何学的なカーブを描いて回廊状の形を構成する木造の歩道橋のようなインスタレーションである。回廊の複雑な形はそのままペトロ岐部の歩んだ道程をモチーフとしており、国東から世界を巡ったペトロ岐部の行程を、追体験するべく意図されたという[※3]。
林の中を歩いて説教壇へと向かうと、涼しい海風が気持ち良く、教会の異国的なムードも相まって、一瞬、ここが国東であることさえ忘れてしまう。
ペトロ岐部がたどった道程を縮図した「説教壇」を歩きながら、このあたりがインド、このあたりが中東か、などと考えていると、丘の先端にある展望台に辿り着いた。折り返し地点であるここが、ペトロ岐部が目指したローマということになるのかもしれない。
そこから海を見渡すと、遠くに姫島が見えた。今から約400年前、ペトロ岐部はどんな面持ちで、ここから海を見渡しただろうか。まともな地図すらないその時代、遥か彼方の地にキリストの苦難を想像した男の決意とは、いかなるものだったのだろう。
説教壇の滑らかな木に手をおいて、ペドロ岐部の旅路を夢想してみる。しかし鬱蒼とした林の空気はどうにも心地が良く、川俣の「説教壇」は彼が歩んだ重苦しい足取りよりもむしろ、祝福された魂の軽やかさをこそ、私に想起させた。
神秘をはらむ、由来不明のストーン・サークル
寺、そして教会と見た私は、今度は国東半島の西へ。その日の最後に、国東半島の付け根にあたる、宇佐市安心院町郊外を訪ねた。国道658号に面した米神山の麓に車をつけ、山の方を見上げると、早速、奇妙な石碑と看板が並んでいる。地元で「佐田京石(さだきょういし)」と呼ばれるこの場所は、由来不明の石碑群が山全体に立ち並ぶ、謎多き場所[※4]なのである。
車を停めて、地元ガイドとともに山へ。しばらくはなだらかな傾斜の杉林が延々と続いていく。標高475mと聞いていた私は、このとき、大した装備も心構えもなかった。むしろ重たいカメラを2台も持っても余裕しゃくしゃくの気分だったが、それが大きな失敗であった[※5]と気づくのに時間はかからなかった。
最初こそ易しかった傾斜も、徐々にきつくなり始めていく。さらに中腹あたりからはずるずると滑る泥っぽい急傾斜を、上から張られたロープにしがみつきながら、登っていかなければならない。
一方、途中途中には巨岩、奇岩がゴロゴロと転がる岩場があり、この山がなんらかの神秘性を帯びた奇妙な山であることは嫌が応でも理解できた。
息を切らし、いよいよ心が折れかけ始めたその頃、ついに頂が見えた。とはいえ、汗だくになって辿り着いた山頂の景色は素っ気なく、原っぱのような草むらの中に、ゴロゴロとした岩がおよそ20個ほど並ぶのみ。一見すると自然の岩場のように見えなくもないが、よく見れば人為としか思えない、不思議な並びである。
ガイドによれば、山の周辺には他にも数ヵ所、環状列石や奇岩が立ち並ぶ場所があり、いわば山を含めたこの一帯が、古来霊山として信仰されてきた可能性が高いという。しかし余りにも伝承が少なく、いつから存在したものなのか、また誰が造ったものなのか、ほとんど何も分かっていない。
一説には、一部の岩にペトログリフが発見されたことから古代の祭祀遺跡とも言われているが、別の場所では写経された岩も見つかっており、中世の仏教信仰に関係しているという話もあるらしい。
しかしいずれにせよ、神仏習合に来訪神、そして隠れキリシタンまでを擁するこの複雑怪奇な国東半島において、この岩の「聖地」が、何か単一の宗教や信仰によって造られたと考えるのは、むしろ不自然にさえ思える。
この旅で幾度も眼にした、国東の岩。それはただ悠然と苔むしてそこにあり、時代や文化に即して刻まれ、並べられてきたのだ。そして岩戸寺で見た朽ちつつある仁王像のように、やがて時間と風雨のみが、岩を自然へと還し、歴史を忘却させるのだろう。
(その3に続く)