国東半島を訪れたのは4月のはじめであった。東京では桜がその最後の花弁を散らす頃、温暖な国東はすでに新緑が芽生え、夏の準備をはじめていた。
7つの山脈に囲まれた6つの谷筋には古くから郷が開け、あちこちに寺院が創設された。そうして出来上がった独特の文化を、いつからか人々は「六郷満山[※1]文化」と呼んだ。あらゆる文化を受け入れたこの地には今、どんな「アート」が存在するのか。手始めに私は六郷満山文化を代表する古刹、文殊仙寺へと向かった。
炎が照らし出す岩窟の古刹、文殊仙寺
空港から峠道のような細い山道を幾つか抜け、ようやく文殊仙寺[※2]にたどり着いた。入り口とされる場所には山へと延びている階段が見える。
国東の寺は基本的にどこもこのように、山の上に建っていることが多い。準備を整え、いざ巨木の杉林に囲まれた階段を上っていくと、途中で深く苔むした2体の仁王像が迎えた。そこから鳥居をくぐりさらに上った見晴らしのよい高台に、文殊仙寺は建っていた。
都会の寺社のように決して豪奢に彩られたものではない。しかし代々、僧が大切に磨き上げたのだろう。その美しい木目は荘厳でいて静謐な、時間の淘汰を耐え抜いた建物のみが持つ威厳を自然とたたえている。
副住職のお招きで、奥之院文殊堂の中へ。建物の後ろ半分は岩窟にのめり込むように建っていて、寺と岩窟は内部で繋がっている。水が湧き出すこの岩窟は、かつて修験道の聖地であり、神仏習合の歴史はこの半自然=半人工の建築によって、象徴されている。この日は縁日ではなかったが、副住職のご好意で特別に護摩焚を行っていただいた。
天井まで届きそうな強い炎と、香ばしい薪の燃える香り。清らかな鈴の音と住職の念仏だけが響きわたる。その神聖な空間は、はるか時空を超えて現代と古代を結びつけ、幻想的というほかなかった。
奇祭、禁忌、縄文遺跡とLED
次に訪れたのは、国東町成仏地区にある成仏寺[※3]。六郷満山における代表的な寺のひとつに数えられるこの古刹が、広くその名を知られるのには理由がある。ここは国東半島で最も有名な祭、修正鬼会(しゅじょうおにえ)[※4]を執り行う寺なのだ。しかし後継者不足などにより伝統は徐々に失われ、現在はここ成仏寺を含めた国東の3つの寺でのみ受け継がれている。
私はいずれ、この祭りを見に来たいと考えていたが、昨今は成仏寺ですら修正鬼会の開催が困難となり、今年(2016年)2月の開催はついに止むを得ず休止したという。
※4 修正鬼会とは、一説に来訪神ともいわれる異形の鬼に扮した僧侶が、煌々と火が焚かれた松明を持ち、境内で激しく踊り狂う奇祭。国指定重要無形民俗文化財に指定されており、五穀豊穣を願う修正会と、悪鬼退散を願う火祭りとが一体になった、全国でも珍しい祭事である。
あちこちに見られる宝塔も、奥之院にある岩窟も造りは素朴だが、その実直な佇まいは、さながら円空の仏像のごとく、むしろ信仰が形骸化せずに存続する証左のようでもあり、奇妙な説得力があった。
さて、ここ成仏地区には成仏寺とは別にもうひとつ見るべき場所がある。それが成仏寺の向かいに位置する成仏岩陰遺跡だ。
国東の原風景とでもいうべき美しい石垣田を横目に、緩やかな傾斜の山林を登ること10分あまり。奇妙な光景は、空高くそびえる杉林の奥深くに、唐突に現れた。
石灰岩らしき巨大な絶壁。高さ16m、幅30mを超えるこの巨大な岩壁を含む成仏岩陰遺跡では、地中から縄文時代の人骨が発見されている。それ故かどうかは定かでないが、古来、この地は地元の人々から畏れられた禁忌の地であったらしい。
2014年10月、そんな聖なる岩壁に、大胆にも電子の光をちりばめたのが、国東半島芸術祭[※5]で招聘されたアーティストの宮島達男であった。
「Hundred Life Houses」。そう名付けられたこの作品で、宮島は岩壁全体を成仏地区の地図に見立て、実在する家々の位置にあわせて、岩壁に縦横10cmほどのボックスを設置した。
この大胆な作風を眼にすると意外だが、国東半島芸術祭関係者によれば、宮島ははじめてここを訪れたとき、岩壁に畏怖の念を覚え、作品を設置することを躊躇ったという。しかし地元の人々から熱烈な後押しを受けると、まずはここに地元の人々や作品制作に関わる方々を集めて宴を開き、場を清めてから作品を設置したのだそうだ。
縄文時代からそびえたつ険しい岩壁と、輪廻する魂のごとく明滅を続けるカウンター。まるで違うリズムで共存する両者のコントラストは、万物の生生流転を描いた壮大な屏風のようで、深く苔むした緑黄の岩場に、赤い電子の光が、不思議と馴染んで見えた。
奇岩に刻まれた古代文字の謎
その日最後に訪れたのは、ある意味で、この旅で私が一番楽しみにしていた石碑である。とはいえ、あらゆる国東半島のガイドブックを見てもおそらくこの石碑について書かれたものは、ほとんどない。
なぜならば、この石碑は今も昔も、正式には、国東半島の歴史遺産とは認められていないからだ。その場所は国東に精通した人でないとわからないということで、この地に詳しいガイドが合流。その案内で再び山道へと分け入った。登山はそれまでの行程にしては、たやすいものだった。鹿除けの鉄柵などをまたぎ、15分ほど山の中に分け入った場所で、ガイドが立ち止まってふいに一方を指差した。
「あそこです」――。
まるで小さな古墳のように盛り上がった地形のてっぺんに、不可思議な造形の奇岩が、ひっそりと鎮座していた。
奇岩に描かれたこの文字の起源は定かではないが、ガイドによれば、こんな逸話があるという。
“戦後まもない頃、この地を訪ねたある僧が、村人に「この山に何か奇妙なものはないか」と尋ねた。村人はあの奇岩かと僧に教えると、僧は岩に大事なことが書かれているから大事にするように、と村人に教えた”
以降、この文字が刻まれた奇岩は、起源もわからぬ不思議な遺物として、この地で語り継がれている。
しかし上述の通り、この奇岩の真相をめぐっては、今も議論が続いている。一説に、岩に書かれているのは豊国文字[※6]とされ、意味するところは概して「この場所を焼き、この地を耕し、太陽神を祀れ」といった意味だという。そして岩の背にはやはり同じ文字で「富秋足中置(トミアキタラシナカオキ)天皇」という名が刻まれている。
さて、随分と好奇心をくすぐられる話だが、それだけ凄いものならば本来はとっくに文化遺産に登録されて然り。だが決してそうならず、今も山中に放置されているのには、やはり相応の理由がある。 この奇岩、あるいは豊国文字そのものも、今のところその真相は解明されておらず、実際は近代以降しばしば見られた偽史・偽書の派生物であるという可能性が濃厚と指摘されているのだ。
実際、この後、私は行く先々の寺で、ご年配の僧たちにもこの岩について尋ねてみたのだが、皆一様に、「あの岩については、よくわからないですねえ。はははは」と言葉を濁すばかりであった。
しかし神仏習合の岩屋を備え、来訪神の奇祭を維持し、今では現代美術までをも包摂するこの国東という“異郷”を旅すれば、こんなファンタジーのような遺物すらも、さもありなんと、いくらか真実味を帯びて見えるから不思議である。たとえば今から数百年後も宮島の「Hundred Life Houses」が成仏の岩壁に残っていたら、人々はあるいは巨岩信仰に根ざした21世紀の新興宗教か、どこか遠い場所から来た来訪神の信仰と捉えるかもしれない。
歴史に真偽はあれど、文化には基本的に真も偽もない。国東の岩にむした深緑の苔のように、そこにあり続けた痕跡そのものが、その土地の是も非も背負って、ある日、文化と呼ばれるときがくるのだろう。
(その2に続く)