ギャラリーや美術館によく足を運ぶというクリープハイプの尾崎世界観さんが見る現代美術とは? 第2回は、資生堂ギャラリーで開催中の「『第13回 shiseido art egg』遠藤 薫『重力と虹霓(こうげい)』展」を鑑賞。沖縄、東北、ベトナム、インドなど、さまざまな地域で布を集め、それらをつなぎ合わせたり、縫い目を入れたりして、布をつくり、使い、修復し、再び使っていくという終わることのない作品を制作し続ける遠藤さん。布ができるまでの工程を初めて知ったという尾崎さんは、その途方もなさに驚きを隠しきれず。
布が生まれるまでの、 途方もない仕事と恩寵
──まずは展覧会の全体像について、遠藤さんにお話しいただいてもよいでしょうか?
遠藤 布にまつわる展示をしています。今回の展示を象徴する作品から始まって、メインの展示室では私が制作している布が展示されていて、奥の空間ではその布をつくる過程や染色、糸を紡ぐ道具などを並べ、最後に布と工芸にまつわる評論家のテキストが読めるようになっています。入口から作品が始まっているんですが、まずは展覧会のポスターがあって。階段を下りて、踊り場に来ると1本の糸と1点の刺繍作品があります。
尾崎 (展覧会ポスターを見ながら)これは何ですか?
遠藤 わからないですよね。下の階に展示してある作品を拡大したものになります。
尾崎 展覧会のタイトルは重力と、何と読めばいいのでしょうか?
遠藤 「こうげい」です。シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵(おんちょう)』からきています。虹霓(こうげい)は、虹の意味なんですが、「工芸」ともかけています。いつも着ている服って、織られているってあまり意識しないですよね? 織ってある布ってすごい状態なんだと私は思っているんですが、そういうことを少しでも展示から感じてもらえればと思います。
尾崎 確かに一枚の布としか考えたことがなかったです。そう言われてみると、途方もない作業が裏側にあるんですね。この絵は何ですか?
遠藤 上の展覧会のポスターは、この絵を拡大したものなんです。これはミレーの『落穂拾い』を刺繍化した作品の裏側を見せているもので、この展覧会を象徴する作品だなと思っています。
尾崎 どうして裏側なんですか?
遠藤 ステッチの絵って、表側を見ると普通の絵なんですが、裏側を見ると膨大に糸が入り組んでいる。その人の仕事量がわかるんです。そっちを見せたかった。この絵をつくったのは、もう亡くなってしまった青森のおばあちゃんです。青森って冬寒さが厳しいので、着ているものを糸で縫うことで少しでもあたたかくしようと「刺し子」をする習慣があります。彼女は、必要に迫られてはいなかったんですが、余生の趣味として刺し子の刺繍を楽しまれていて。他にもゴッホとかスーラの絵を刺繍されています。
尾崎 『落穂拾い』がこの展覧会にぴったりだったんですね。
遠藤 そうなんです。落穂拾いっていうのは、農民の中でも最も貧しい人たちがしていたこと。麦の穂を刈りに来る農民は、落とした穂を拾いに来る人たちのためにわざと拾わないで帰るそうなんです。そうやって分け合って暮らしていたという。この絵を見たときに、展覧会を象徴する作品だと思い、最初に展示をしました。
尾崎 大きな意味があるんですね。
遠藤 生活が苦しくて、着るものが買えずやむにやまれず刺し子をする方もいるんですが、それと同時に彼女のように楽しみでやっている人もいる。『重力と恩寵』ではないですが、その両方を表したかったんです。
尾崎 下の作品の話になるのですが、蚕が糸を吐きながら布を這って修復している映像があって。これは昔からあった技法なんですか?
遠藤 実はものすごく古い技法なんです。穴が開いてしまった布のところに蚕を放っておくと、体を8の字によじりながら糸を吐いて、勝手に布をつくってくれるんです。蚕がエリアから出そうになったらポイポイと中に戻し入れてあげると、そこでずーっと糸を吐いています。蚕というのは壁がないと繭をつくることができないので、囲いのない平面に放っておくと食べた分だけずーっと糸を吐き続けているんです。
尾崎 面白いですね。この糸はどれくらいの強度があるんですか?
遠藤 触ってみてください。
尾崎 (蚕が修復した部分を触りながら)だいぶしっかりしていますね。手に吸い付くような、面白い触感です。
遠藤 そうなんです。人間の肌のたんぱく質ともよく似た性質を持っている素材で、手術の糸に使われたり、これを粉末にして化粧品にしているところも。100℃でも燃えないくらい熱にも強い素材なんです。明治以降、皇室でもご養蚕が行われているように、貴重なもののように思えますが、実は畑はおろか自然界においても害虫だったという説もあるくらいなんです。人間と契約を結ぶことで生存戦略を図っているという状態にはなっていて、人間がいなくなると蚕も生きられない。人間も自然界からしたら、ある種害虫みたいなものですよね。そんな弱いふたつの種が支え合っている構図というのも面白いなと。
尾崎 確かに。害虫同士がタッグを組んでいる。
遠藤 この作品では、戦前の麻素材のぼろ布に蚕を這わせて修復しているんですが、農民の方々が使ってきた麻の穴を、ヒエラルキーの象徴のような蚕が一生懸命糸を吐いて修復しているという。価値の逆転がこの場で起きているとも言えます。
尾崎 一枚の布の上で、そんなことが起こっていたんですね。
遠藤 織り機ってパソコンの前身ですよね。本当は糸を織る必要なんてなかったんじゃないかという説もあるんです。スペースシャトルに乗る家畜として蚕が選ばれたんですが、害虫同士の人間と蚕が宇宙にまで一緒に行くんだと感慨深い気持ちになりました。
── 映像を見ていると沖縄、青森、ハノイ(ベトナム)、インドといったいろんな場所が出てきますが、遠藤さんが各地で布を制作されるときのルールってあるのでしょうか?
遠藤 場所としては染職のルーツを追っていて。インドから始まって東南アジア、沖縄、北上していく感じです。そこで常にやっていることは、“布を使うこと”と“布を強くすること”、このふたつだけです。工芸っていうものは、ほとんどが風土や気候条件、植物の分布や政治の状況といった「場所」に依存しているので、そこには忠実でありたいと思っています。でも、あんまり厳密にはしたくないなと思っていて。例えば、カンボジアの布を復興したのって、日本人なんですよ。1970年代のポル・ポト政権時代の内戦のために途絶えようとしていたカンボジアの絹織物文化を日本人の森本喜久男さんという方が入り、復興させたという有名な話があります。ですので、カンボジアの布には日本の蚕と東南アジアの蚕の糸を混ぜています。
尾崎 今回、蚕という生き物を初めて見ました。映像で見ていたのですが、あまり害虫という印象がないですね。なんだか神様のようです。神聖な感じがしました。体を動かしながら糸を吐いている姿がちょっと寂しそうにも見えるし、見ていて飽きませんね。
遠藤 鋭いですね。蚕はお蚕様と言われて、神様扱いされていたものなんです。かなり神聖なものなんです。糸が光っているし、きっと神々しく感じたんですね。
尾崎 この布の作品は、どの時点で完成するんですか?
遠藤 展示されたとき、と言えばいいでしょうか。私が制作をする布の作品というのは、常にワーク・イン・プログレス(進行中)なんです。私が直しながらずっと使っていって、経年変化もしていって、何年後かには別のものになっているような。老いていくことも肯定できる作品なんです。
尾崎 なるほど。完全に消滅することもあり得るんですか?
遠藤 私がいる限りはそれはあり得ません。私が集中して布を消滅させないように、ボロボロになっても直して使い続けます。それって、工芸とは真逆の考え方なんですよね。
尾崎 それはどういうことですか?
遠藤 工芸の作家というのは、高級になればなるほど、着られない着物をつくったり、使われないお皿をつくるようになることが多いんです。
尾崎 でも、老いていくということに肯定的というのはいいですね。作品に完成があるとすれば、そこが頂点で、そのときの美しさを保ちたいと思っていても、時間が経つにつれてどんどんダメになってしまう。汚れていったほうがいいと思っていれば、作品がダメになるということもないですよね。
遠藤 確かに。ダメなところがないんですよね。私もボロボロの布が好きなので、常にいい状態で上がり続けるしかないっていう。
尾崎 でも完成しないということは、販売はしないのですか?
遠藤 今は売るということで作品を止めてしまわないように、販売はしていません。でも、将来的に売る方法について考えていて。ピカソの絵を仮想通貨で販売して、共有の所有権を売るという仕組みがあって。美術の市場というのも、常に変化しているので、そういうことも可能なのかもしれない。クラウドファンディングとも違う、ゴールのない投資というか。そういう仕組みを考えたら、助かるアーティストってたくさんいるんじゃないかって思います。
ユーモアセンスで、 制限を乗り切る
尾崎 映像の中で街を掃除されていますが、あれはどういった感覚でやられているんですか?
遠藤 ハノイの街でアートをするための方法が「掃除」だったんです。ベトナムって共産主義国だということもあって、美術に対する取り締まりがものすごく厳しいので、アートをすることが非常に難しいんですね。本を送るのにも政府批判をしているんじゃないかって疑われてしまいます。この前はカレンダーを送ろうとしたら、漢数字が書いてあるからダメだと言われて、作品を制作するのは相当難しいなと思って考えたんです。私は布を使いたい、ベトナムの街は汚い、だったら街を掃除すればいいじゃないかと。しかも、布を削ってダメージを与えるのは美術のサンディング(やすりをかけてなめらかにする方法)にも似ているなと思い。いろんなことが頭の中でしっくりきたんです。
尾崎 そのときに考えたことを、引き続きいろんな土地でやっているという感覚なんですね。
遠藤 そうです。掃除もしていますが、普通に家でじゅうたんとして使っている布もありますし、使い方は布によってさまざまです。
尾崎 それで、ハノイの街では警察の人に話しかけられた時に「掃除をしている」と答えたんですか?
遠藤 はい。展示はおろか作品制作しているなんて言えませんから、私たちは掃除をしているって言っていたら、警察の人も「確かにベトナムは街が汚いからなあ」とか言っていました(笑)。
尾崎 遠藤さんは、テクノうどんのイベントもされていたんですよね? そのときの考え方に似ているのでしょうか。
遠藤 そうですね。あの時は風営法でダンスが規制されたときに、ダンスをするのではなくてうどんを踏んでいるんだって言って、音楽に合わせてうどんを踏むイベントをやったんです。
尾崎 その発想の転換は面白いです。
遠藤 そうですね。変に反骨精神があるんでしょうね。伝えたいことをストレートには伝えづらくて。歌詞とかも、そのままの言葉ではなくて別の言い方で伝えたりするじゃないですか。いわゆる芸術性を持ったものって回り道をするものなんじゃないのかなと思います。高田渡の『生活の柄』という歌がすごく好きなんですが、歌詞を書いているのが沖縄の山之口貘という人で。もともと高田渡は反戦の歌をよく歌っていたんですが。
尾崎 自衛隊に入ろうという歌ですね。
遠藤 その後、彼はストレートに反戦を歌うわけではなく、“生活”の歌を歌うんだと言って、当たり前であることがいかに大切かを語るんです。それが結果的に反戦の歌になっている。それは工芸にも言えることなんじゃないかとも思っていて、『暮らしの手帖』の花森安治もそうですが、身の回りの生活の美しさを保つことが反戦なんだという。音楽って、たくさんの人に早く伝わるからいいですよね。
尾崎 そうですね。でもその立ち上がりの早さに勘違いをされてしまうことも多くて。思っていないところまで届いてしまって、全然やりきれないのに伝わってしまったなという思いもあります。
遠藤 回転自体も早いですからね。流布も早いというか。でも、ちょっとうらやましいところはありますけどね。美術は遅さを引き受けている分野なので。いつも思います。
尾崎 でも、その引き受けているという気持ちが大事ですよね。ということは、音楽は早さを引き受けているということですね。
遠藤 美術って閉じているような感じですが、音楽ってみんなのものだっていう印象もあって、そこもうらやましいです。
尾崎 難しいですね。開き過ぎているなと思うこともあります。本業として長年向きあっているものだからこそ、どこかで疑っているような面もありますね。
遠藤 だから小説を書くんですか?
尾崎 はい。もっとちゃんと伝えていかなければいけないという気持ちがあって。でも、その間に挟まってジタバタしている感じなんですけど。小説は小説で果てしないからやりきれないし、音楽は音楽で伝えきれていないのに伝わってしまうようなところがある。でも、そうやって挟まれながらやっているのが楽しいんだと思います。普段、身近にあるのにもかかわらず全然意識していなかった「布」に触れることができて、今日は面白かったです。でも、本当に布ってどこにでもあるんですね。
遠藤 そうなんですよ。大事なことが行われるのって、全部布の上なんだなって。生まれたり死んだり。ほとんど寝ているし。肌に一番近いから、第二の皮膚とも言われていますしね。
尾崎 確かに布からは、すごい怨念を感じますね。布の作品を見て、家のカーテンを思い浮かべました。15年くらい前に引っ越した先で、大家さんからもらったものなのですが、その次の引っ越し先にも持ってきてしまって。その後も何度か引っ越しているけれど、いまだにそのカーテンが家に吊るされているんです。これまでの思い出や、なんとも言えないものまで刷り込まれている気がします。あのカーテンを使って作品を作ってもらいたいです(笑)。
遠藤 え、いいんですか? ぜひ、今度、家を掃除させてください(笑)。
会期:2019年8月30日(金)~9月22日(日) 入場無料
開館時間:平日11:00~19:00、日・祝11:00~18:00
定休日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合も休み)
住所:東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビルB1
TEL:03-3572-3901
詳しくはこちら→資生堂ギャラリー公式サイト
※「第13回shiseido art egg」では、もう2名の入選者、今村文(会期2019年7月5日〜7月28日)、小林清乃(会期2019年8月2日〜8月25日)の個展も開催した。