クリープハイプ尾崎世界観さんと詩人の暁方ミセイさんが、宮沢賢治の『春と修羅』の序を読み、お互いが書くことばについて語り合う対談企画の後編。書かれてから100年近く経っていても色褪せず、多くの人に影響を与え続けている『春と修羅』。中学生のときにこの詩に出会い、賢治の世界にのめりこんだという暁方さんによる詩の世界と、尾崎さんがメロディに乗せて届ける歌詞の世界。二人の創作に対する姿勢や、創作方法にまで話は及びました。
尾崎 宮沢賢治の『春と修羅』の序は、全体的に難しく感じます。特に最後の3行。
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
この部分には、どういった解釈があるのでしょうか?
暁方 難しいですよね。「第四次延長」というのは、第4次元のことだと言われています。縦、横、高さで測れる立体の空間が、3次元ですよね。4次元というのはそこに時間がプラスされたものなんだそうです。宮沢賢治の4次元世界の中では、神や仏、幽霊やなんかも、すべてが大きな意味での同じ世界にいるという考え方なのかなと思います。彼は岩手のことをイーハトーブと呼んでいますが、「イーハトーブ」も、4次元空間の世界。そこでは様々な疎通の障害が取り払われ、動物と人間の区別がなくて、動物がことばを話したりする。
私なりの解釈になるのですが、例えば、私の想像の中にあるペットボトルと、現実にそこにあるペットボトルだと、後者だけをリアルな存在として考えがちですが、そうではなくて、頭に思い描いたペットボトルも、私と現象で繋がってたしかに現れたもので、物体と同じように存在しているという意味でもあるのかなって。
だから詩の中にある「青ぞらいつぱいの無色な孔雀」とか「透明な人類の巨大な足跡」っていうのは、今の常識だと妄想だと言われてしまうけれど、2千年も経ったらそれは同じように存在しているって思われるようになるかもしれないという意味なんじゃないか。
中学生だった私はそこに感激したんです。現実では孤立していて、頼れる人がいない状態でつらかったのですが、本の中で出会った人たちのことを、クラスメイトや家族と同等の存在なんだと考えていいんだと言われた気がして。宮沢賢治の詩を読んで、すごく安心したんですよね。
尾崎 そうなんですね。賢治に出会った頃の暁方さんは、もう詩を書かれていたと思いますが、それはどういった詩でしたか?
暁方 結構尖ったやつです(笑) 。「炎」「闇」とか単語だけを並べて、字の持つ気配や、語と語の間から放たれる何かを、読み手側が積極的に受け取ってその人の中で詩にしてくださいっていうような……。でも、考え方としては今もあんまり変わらないのかもしれません。
詩を書き留めることで 手が届かなかった世界に触れられる
尾崎 暁方さんは賢治のどんなところに影響を受けましたか?
暁方 もう私の中に賢治は染み込んじゃっていて(笑)。私が詩を書き始めた理由というのは、すごく単純なことです。心身がどうしようもなく感じること、書かないと流れていってしまうことを書き留めたかったんです。書き留めるということを一生懸命やることで、何か世界の今まで手が届かなかったところに、そっと触れられるような感覚があって。それがきっと私にとって共同体を広げるということだったのだと思います。人間社会の外に自分の手で触れる、触れようと手を伸ばすことができるという。賢治の考える世界の範囲に、根本的な価値観から影響を受けていると思います。
尾崎 それは中学生の頃からですか?
暁方 中学校のときから、そうですね。なんか私、本当に賢治しかいなかった時期が長くて……。
尾崎 普通に昔の恋人の話を聞いているみたい(笑)。
暁方 そうですね(笑)。でも、本当にそうなんです(笑)。
尾崎 それは、賢治が現実世界にもういない、というところもポイントが高かったのでしょうか?
暁方 もちろん! 鋭いですね。コンプレックスでもあるのですが、生きている作家さんの創作物を読むのは、基本的にあまり得意ではなくて。距離が欲しいんだと思います。
宮沢賢治が「心象スケッチ」と呼んでいたものにも通ずると思うんですが、自分が真剣に、本当に具体的に、できるだけ個人的に感じたものを、その事柄自体を書くわけではなく、感情や自分の中にあった手触りだけそのまんま書いたものが、誰か同じような人に刺さったり、その人に寄り添ったりするものなのかもしれないと思っていて。多くの人に共感してもらえたり、面白くていいねって言ってもらえるものというよりは、私が1度きりの人生において、この身体で感じたことを書いてみたい。で、誰かに、ああ、自分が言いたかったことはこれかもしれない、と感じてもらえたらいいな。その人も孤独なまま、私も孤独なままで、大きな共同体のなかにともに存在しているというくらいに思ってもらえたらいいなという。
尾崎 なるほど。暁方さんは、どれくらいのペースで詩を書いていますか?
暁方 ちゃんと作品の形にしないで書き留めておくレベルなら、毎日とまでは言わないけれど、結構な頻度で書いています。通勤するとき、歩きながらとか。私、歩いているときにしか詩が書けないんですよ。パソコンに向かって書こうとするとどうも鬱屈してしまって。歩いて血液が回ってくると書けるようになるんです。
尾崎 えー。ということは歩きながらスマホに入力しているんですか!? 歩きスマホには要注意ですね(笑)。
暁方 確かにそうですよね(笑)。さすがにずーっとスマホを見てるわけじゃないのでご安心ください(笑)。立ち止まってちょこっと書いてという感じです。でも、歩いている時間で1編書き切ろうという気持ちがあって。だから最近は短い詩にばかりになっていますが。書きためておいて、作品を発表するときに整えていくような感じです。歩きながら思いついたことばなので、書いた詩を覚えていないことも多くて。雑誌に載ったとき、自分が書いたことばという実感がなくて変な気持ちになることもあります。
尾崎 詩作をされるときは、ことばを自分の身体に通過させている感じがあるんでしょうか?
暁方 それに近いのかもしれません。自分だけのオリジナルなんてものはないと思っていて。人間って他者から受け取ったものを身体の中でぐちゃぐちゃにして、それが出てくるだけじゃないですか。その組み合わせの出方だけがオリジナルというか。
尾崎 自分の場合は、ことばを違うイメージに置き換えていきます。
暁方 確かに尾崎さんの歌詞には多いように感じます。ことばを置き換えるのは、やっぱりそこに自分のオリジナリティがあるからという意識なんでしょうか?
尾崎 そういう部分はありますね。そのままの表現だとちゃんと塗れていない感じというか。絵で言うと、塗り残しがあるなと思うんです。もうちょっと細部まで塗れたらいいのにと思うものを言葉にしていくようなイメージです。でも、それによって今まで塗れていたところが消えてしまうこともあるけれど、それはそれでいいと思っています。
暁方 塗るという表現がすごくしっくりきます。その通りだなと思います。尾崎さんがしっかり描いたものという感じが確かにしますよね。尾崎さんの中で音楽と小説とを共通に貫いているものってありますか。
尾崎 できることとできないことはあるかもしれないですね。音楽はある程度長く続けてきて、どんなものをやっても成立してしまう感じがあって。でも、そこに悔しさもあるんですよね。昔は、これが曲として成り立っているのかという不安の中でやっていたけれど、もうメジャーデビューしてから10年近くが経って、どんな曲をつくっても届くところには届いてしまう、その寂しさみたいなものがあって。そこで小説を書き始めたら、できないことにちゃんとぶつかれた。なんというか、できちゃうことって恥ずかしく思うんです。昔から何もできなかったので。勉強もできないし、泳げないし、そういうときにできる人間を下から見上げて、負けたくないと思っていたので。
暁方 常に抗っているんですね。ずっとそういう尾崎さんでいて欲しいです(笑)。カッコ悪くないとカッコよくない感覚って、ありますね。
下から上を見続ける 常にできない人でいたいという気持ち
尾崎 そうなんです。ずっと自分とは違うと思っていた人たちと同じ場所にいるのかもしれない。そう思った時に小説を書き始めて、できないということに安心して。そう思わないと生きていけなかったんです。できちゃったらダメ。バイト先で出世するバンドマンはダメだと思ってたんですが、それは自分が仕事ができなかったからであって。でも、頑張ってもできないことがあることは、自分にとって救いでもある。本当に辛いけれど、その分、余白があるから守られている感じもします。
音楽もそうで、突き詰めていくとどんどんそぎ落とされていくんですが、僕はそこに化学調味料のようなものを入れていきたいんです。長く続けていると、いつのまにかだんだんと健康指向になって、オーガニックな素材を使うようになっていくんですよね。でも、それが嫌なので、ジャンクな味にしておきたい。だから、本来削ぎ落す方向に向かっていく気力を、全部できないことに注いでいく。そんなイメージです。
暁方 すごくわかる気がします。詩もやっぱりだんだんオーガニックになっていく人が多いと思います。年を重ねて社会のことを考え始めると、いいことを書きたくなりますしね。あと子どもができるとガラッと世界が変わったりするし。
尾崎 わかります(笑)。ひょっとしたらそうなるのかもしれないと思うけれど、そこに抗っていきたい。でもわからないですよ。来年くらいになったら「この手のひらに小さな命が」とか「君に出会えて僕は変わったよ」と歌っている可能性もありますから(笑)。
暁方 すらすら出てくるのがすごい(笑)。
尾崎 言えるということは絶対やらないということですよね。
暁方 尾崎さんの歌詞は、いつでも弱い人に寄り添っている感じがします。自分が一番低い場所にいて、そこから世界を見ている。そういえば、この指輪ですが、埼玉のとある駅の雑貨屋さんで買ったものです。店に入ったら、店員の女性がつまらなそうにレジに立っていて、そこにクリープハイプの『しょうもな』が流れてきたんです。彼女が聴いているのがなんとなくわかりました。いい情景だったんですよ。過去と未来に切なく思いを馳せながら『しょうもな』を聞いているんだと想像したら胸打たれるものがありました。埼玉の片隅で仕事をしている女の子の、その二度と戻らない一日に届く音楽ってすごいなと思いました。何か記念に買いたいと思って、『銀河鉄道の夜』にも出てくるさそり座の指輪を買いました。
尾崎 いいですね。自分もさそり座なんです。暁方さんは中学生のときに賢治に出会って、現在も詩作をされていますが、その時とは変わりましたか?
暁方 良くも悪くも、以前より「人」がいることを意識するようにはなりました。だからか、中学生の頃に比べれば、人間ともうまくやっていけるようにはなりました(笑)。当時は賢治作品の神秘性に魅かれていた面があったけど、今はそうじゃなくて、人体の機能としての心を明晰に捉えて書こうとした態度に共鳴しています。一方で、個はどこまでも個でありながら、同時に全体と深く繋がっているという考えは、変わらず私の中で、大切にする核になっています。孤独であることは全然悪いことじゃない。でも、そのときに安心できることが大事なんだと思います。安心して一人でいられる。それがきっと自分らしくいるとか、そういうことなんじゃないかと思います。
尾崎さんが「できてしまうことが恥ずかしい」と言っていましたが、賢治も人より恵まれた環境にいることが恥ずかしいと感じる人だったと思います。頭が良くて家も裕福な彼は、今の岩手大学農学部にあたる盛岡高等農林学校を卒業し、地元の花巻で教師になって、安くはない月給をもらうことができました。生徒からも、評判のいい先生だったようです。でも、卒業した教え子たちが過酷な東北の農業に身を投じていくのを見て、自分のあり方に疑問を抱いたのかもしれません。30歳で退職し、自らも農民になると友人宛の手紙に書いたりして、自給自足生活をはじめます。無理な生活が祟って、どんどん体調を崩し、37歳で亡くなりました。多分彼は、農民たちに、ずっとある意味引け目を感じながら生きていたんだと思います。
尾崎 自分と同じ年です。37歳で亡くなったのか……。裕福な家に生まれて、恵まれているように見えて、ずっとコンプレックスと戦っていたんですね。賢治は『春と修羅』を何歳のときに書いたんですか?
暁方 25~27歳くらいのときですね。そう考えると、やっぱちょっとイキがってる感じもしますよね(笑)。でも、こう生きていきたいんだという決意表明や、新しい文学に対する燃えるような意気込みを感じます。この詩のことば遣いや、科学や仏教の専門用語の使用、独特の思想は、『春と修羅』のエッセンスの凝縮です。第一詩集の序文として、まさにふさわしい作品なのだと思います。