次の記事 前の記事

Column

2019.08.19

【短期連載】地図のない道 / Art Traveler

文/深井佐和子

インディペンデント・キュレーターで、2人の子ども(6歳と1歳)をもつ深井佐和子さんが、世界のアートが集まるヴェネツィア・ビエンナーレ、そしてイタリアの地を旅した短期連載第3回です。人はなぜ旅をするのか、なぜアートを見るのか。ヴェネツィアからモデナに移動し、街を歩き、目に映る風景や考えたことを綴ります。

Vol.3 モデナ -オレンジ色の街で考える、本当に大切なこと

 ヴェネツィアから高速列車に乗り込み、ボローニャで乗り換えて2時間強でモデナに到着。中央駅は工事中で、エスカレーターもエレベーターも動かず、長い時間をかけて階段を上り下りし、やっと路上に出る。ヴェネツィアとうって変わって、よく晴れたいい天気。タクシーが数台ぱらつく駅前のロータリーでは、運転手たちが大声でのんびり会話をしている。そのうちの1台に乗り込み、モデナの市街地へ向かう。フェラーリのお膝元、北イタリア有数の裕福な街。庭に豊かな植物が咲き乱れる美しい邸宅エリアを抜けながらタクシーの窓を開けると、暖かい風に乗って6年前の記憶がぶわっとよみがえってきた。ヴェネツィアと全く違う、黄色やオレンジ色の装飾の少ない壁の建物が立ち並ぶ中心地はとても美しい。内陸地で山が近い地域の割に、不思議と乾いた風の吹くこの街の明るい印象は、おそらくこの平淡な黄色とオレンジの壁が理由だろう。

 

 モデナへは写真家である夫の個展のために来ている。1年ぶりに会うギャラリストのマルチェッラとは7年ほど前からの付き合い。この北イタリアの保守的で小さな街で、現代写真作品を世界に向けて地道に発信してきたパワフルな女性。夫のヨーロッパでの活動を支えてくれる、頼もしい存在だ。再会を喜び、早速近くのカフェで近況を話し合う。路上に出したテーブルの上でサラダをつつきながら、マルチェッラの背中越しに見える風景がなんと完璧で美しいのかとぼんやり遠くを見つめてしまう。抜けるような青空を背景に続いていくオレンジの小道。その奥に尖塔型の教会が見える。モデナ、大好きな北イタリアの小さな街。ここをまた訪れることができるとは思わなかった。

 夫は早速設営作業へ。マルチェッラから街の北東にジャルディーニ(公園)があると聞き、邪魔をしないように、散歩がてら子どもたちと向かうことにする。今日は街でヨーロッパ物産展のようなイベントが行われており(マルチェッラは、あのくだらないイベント、と白目を向いた)、目抜き通りの両脇には各国の料理を売る屋台が軒を連ねている。プレッツェルをこねる女性の手さばきに長女は釘付けになっている。冷やかしながらのんびり歩き、ギャラリーから30分ほどで、士官学校と植物園に挟まれた公園に着く。この頃には気温が30度を超え、カラカラに乾いた夕方の熱い風が顔をなで、ヴェネツィアからの移動の疲れがどっと出てきた。

 今日の設営作業を終えたチームと合流し、小さなトラットリア、Pomposaに向かう。マルチェッラは美食家で、どのような料理なのか、どんなときにどんな人と食べるものなのか、と地元の食文化を細かく説明してくれる。アートを語るときと変わらぬていねいさに、私はたくさんのことを学ぶ。真摯に伝える、そのことの大切さだ。私は前回モデナで食べた北イタリア、レッジョ・エミーリア地方の料理に恋してしまい、この美味なる街モデナで今度はどんな料理に出会えるのかを内心楽しみにしていた。かつて農民が多かったこのエリアは素朴な山の地方の料理が多く、こんな風な家族経営のトラットリアでは、昔ながらの家庭料理が食べられる。ドカンと盛られた迫力ある見た目に一瞬戸惑うこの地特有のパスタ、グラミーニャは細い穴のあいたショートパスタで、ラグーとともに食す。透明なスープに浮いた小さなラビオリ、トルテリーニはツヤツヤと光って、とても澄んだ味。この地でしか取れない葡萄でつくられた辛口のランブルスコ(赤スパークリングワイン)とバルサミコとともに、山盛りのチーズとプロシュートをつまむ。地元のバルサミコも、パルミジャーノ・レッジャーノも、ランブルスコも、本当に美味しいものはこの街の外には流通しない。そのことをマルチェッラはとても誇らしげに語った。ここでつくられ、ここでしか食べられない味。そのことの特別さは、世界の裏側の料理をいつでも食べられるほど過度にグルメになりすぎた日本から来た私にとっては、逆に豊かに思える。ディナーの終盤、お店を切り盛りする女主人がマルチェッラの脇に来て椅子の背に手を回し、世間話をする。我々のことを話しているのはわかるが話の内容まではわからず、そんな私たちに女主人はニコニコと笑いかけ、話しかける。暗くなった広場に面した小さな食堂を出るときに振り向くと、女主人と息子、まっ白なユニフォームを着た2人がボナセーラ、と手を振った。誇りと優しさに満ちたその表情に、今日という良い一日を祝福された気になり、疲れがどこかへ飛んでいくのを感じた。
 
 翌朝、イタリアに来て初めて、ようやく早朝ランニングに出る。まだ目覚めていない街は空いていて走りやすい。昨日街の最果てだと思ったあのジャルディーニまで、走ったらものの5分で到着してしまい愕然とする。この分なら端から端まで、30分もあればゆうに一周できるだろう。本当に小さな都市なのだ。高い空が、今日も暑くなると告げている。

 

 オープニングの日の朝になっても、設営現場の調整は続く。私と子どもたちはモデナの台所、アルビネッリ市場に行く。食が細く、外食先だとあまり食べられるものがなくていつも苦心する長女だが、イタリアでは珍しく食べ物に執着を見せ、前日に市場のデリで見たグラミーニャをどうしても食べたいと息巻いている。英語が通じず四苦八苦しながらなんとか購入し、市場にあるテーブルで美味しそうに夢中で食べるのを見守りながら、この国の食事、それも高級ではないシンプルな食べ物の美味しさが人に与える心の豊かさについて考える。それはここの人たちがもつ絶対的な安心感や自信と、少なからず繋がりがあるんだろう。この地のものを口にするとき、その豊かさをいただいているような気持ちになるのはそのせいなのだ。

 イタリアが誇るミシュラン3つ星レストラン、オステリア・フランチェスカーナ。モデナが誇るこの店がギャラリーから数分歩いた場所にある。「Via delle Rose(バラの小道)」の突き当たりにあるピンク色の壁の、開いた厨房の勝手口からアメリカのハードロックが大音量で流れ、この街にミスマッチでありながら、不思議な快活さを通りまで漂わせている。開店準備の洗い物の音と、賑やかな話し声が聞こえる厨房を通り過ぎたとき、向かいの建物からシェフのマッシモ・ボットゥーラが出てきて、音楽に乗るようなリズミカルな足取りで通りを渡って店に入っていった。周辺の建物を事務所や打ち合わせスペースにしているらしく、私が通り過ぎるほんの数分の間にせわしなく出たり入ったりする。ハイブランドのロゴが大きく目立つスカーフとデニムをはきこなす軽やかな姿を見て、昨年見た彼のドキュメンタリー映画を思い出した。2015年ミラノ万博の際に彼が行った、食品廃棄への問題提起としての「無料食堂」にまつわるあの映画の前半で彼が口にした「料理をすること、食べることは、人間の尊厳を取り戻すこと」という言葉は、強く私の中に残っている。料理とは、行為であり、振る舞いであり、精神的なことでもある。栄養摂取ということだけではでは割り切れない、人間性や文化を含んだ大きな営みなのだと言うそのメッセージは、ひどく腹落ちするものだった。人間の尊厳、それは私が朝グラミーニャを真剣に頬張る娘を見ながら感じたことと、そう遠くはないんだろう。

 設営はなんとか間に合い、夜には夫の展覧会が無事オープンした。都市部のギャラリーと異なり、一見の客はほとんどいない。裕福そうな地元の常連客や上品な友人たちが入れ替わり訪れ、のんびりとオープニングが進む。一人ひとり、驚くほどゆっくりと作品の説明を聞いていく。ワイン片手にギャラリー前の通りで歓談するマルチェッラの夫と話すために外に出ると、またしてもマッシモ・ボットゥーラが颯爽と通りを歩いており、立ち止まっては商店や床屋の主人たちと親しげに話し込んでいる。ああ豊かな街なのだとまたしても思う。

 最終日、見るべきアートはとマルチェッラに聞くと、フランコ・フォンタナの回顧展を市内数カ所で行っているというので訪れる。私は無知なことにこの作家についてほとんど知らなかったが、1933年モデナ生まれの写真家フォンタナは、同じく写真家でモデナに暮らしたルイジ・ギッリに比べて日本での知名度は低いが、実はイタリアのカラー写真の「祖」と呼ばれる作家で、抽象的で大胆な風景写真はギッリの作品にも大きな影響を与えたと言われている。田園風景や海景が日本では知られるようだが、世界各地の強い太陽の下で撮られた縦位置の抽象的な都市の風景は驚くほどクールで、叙情的でなく物語のないテクスチャーに寄った表現はとても現代的である。フランコ・フォンタナ、ルイジ・ギッリ、オリヴォ・バルビエリなどこの街と写真のゆかりは深い。どの作品も、過度にドラマチックではなく、不思議なドライさと暖かさが共存する不思議な魅力を放っている。それがこの街のキャラクターと重なるのは、きっと偶然ではないはずだ。

 マルチェッラの家族とのラスト・ランチを食べた帰り道、これが私たち家族にとって大切な教会、と道の途中でマルチェッラが扉を指差した。この小さな教会で2人は結婚し、2人の美しい息子たちはここで洗礼式を受けたと言う。扉を開けて無人の教会を覗き見る。5歳までヨーロッパに暮らした長女だがプロテスタント社会だったため実はカトリック文化への馴染みはほとんどない。天井から光が差す祭壇の中央にあるキリストの絵を見て、怖い、と呟いた。霊的なものに対する感覚は、体で学ばなければ理解できない。違う宗教の根源にある畏怖を知る娘に、またしても小さかった頃の自分を重ねてしまう。子どもとともに旅をすることは、世界を知り直しているようなところがある。

 たった数日の滞在のうちに出会うさまざまな風景。頭上のステンドグラスのように、小さな都市にさまざまな物語がちりばめられている。ミラノやヴェネツィアなどの大都市とは違うその穏やかな優しさに、イタリアという国の根幹にある、人間性への信頼が垣間見られたような気がする。

深井佐和子

ライター/編集者/キュレーター

1981年東京生まれ。上智大学文学部卒業。現代写真ギャラリー、アートブックの出版社にて10年勤務した後独立。2014年から4年に渡るロンドン、アムステルダムでの生活を経て現在は東京を拠点にアートプロジェクト・マネジメントを行う他、翻訳、編集などを行う。
https://www.swtokyo.jp/