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Column

2019.07.29

【短期連載】地図のない道 / Art Traveler

文/深井佐和子

インディペンデント・キュレーターで、2人の子ども(6歳と1歳)をもつ深井佐和子さんが、世界のアートが集まるヴェネツィア・ビエンナーレを旅した短期連載第2回です。人はなぜ旅をするのか、なぜアートを見るのか。世界中の人々を魅了してやまない街を歩き、目に映る風景や考えたことを綴ります。

Vol.2 ヴェネツィア -この街の魔法

 ヴェネツィアの街で走るのを楽しみにランニングセットを持ってきたのに、翌朝はバケツをひっくり返したような雨で目が覚める。アパートにあったビアレッティで、私は濃いエスプレッソを淹れる。ミルクがないのでキャビネットにあったスキムミルクを入れたら飲めたものではなく、早く角のバールが開かないか、と窓の外を見る。こんな日は、雨のヴェネツィアなど予想していなかった観光客が10ユーロで買わされた安物のビニールポンチョを羽織り、その白や水色の裾が街中でひらひらと揺れるだろう。高層ビルのないこの島の空は大きく、雨雲や太陽がルネサンス美術さながらのダイナミックな様相を描く。何もかも、空でさえも、絵画的な街なのだと思う。

 パラッツォ・グラッシの隣に宿を取ったのは正解だった。まだまだどしゃ降りの雨の中、一息で建物内に滑り込む。歴史ある館の重い扉を開けて入ると目の前と頭上に広がる吹き抜け部分はいつ見ても壮観だ。この吹き抜けをぐるりと囲むように、全館合わせて40の展示室がある。18世紀に建てられた建物はもともとグラッシ一族所有のものだったが、複数のオーナーを経て2005年にフランス人の富豪フランソワ・ピノーが購入。安藤忠雄によるリモデルののち現代美術館としてオープンした。歴史ある建物はそれ自体が極めて重い。建物そのものの時間軸に加えて、壁面や柱を埋め尽くす精緻な絵画や模様が示すのは、権力の誇示をはじめとする余白のない欲望。貴族社会の明も暗も包んできた建物のもつ独特な重力は、私たちを引き寄せ、そして黙らせる。安藤建築のもつ静なる豪快さとも言える不思議な力はそれらの欲望を押さえつけるでもなく、すうっと受け入れるようにある。コンクリートなどの重い素材を用いながら不思議な軽やかさでこの歴史的な館の在りようを現代的にアップデートし、さらにアート作品を受容する包容力を与える技は見事というしかない。

 今回は楽しみにしていたリュック・タイマンスの回顧展。80点を超える作品をゆっくりと見て回る。豪雨のせいか、人がほとんどいない。現代絵画のターニングポイントとなったと言われるベルギー人画家・タイマンスの作品の特徴である、日常のモチーフが淡々と続くことと、この永久に続くのではと思われる展示室の連なりが重なる。乳白色の一見ふわりとした色調の奥にグレーが薄く見え、そこに狂気が垣間見えるのが作品の魅力。静物画、網膜のクローズアップ、動物、自画像、報道写真……無関連に見える静止画の連続が現代の息苦しさを浮き彫りにし、サイズの大小はあれど、全て等価に扱われているところが写真的だ。佐川一政をモデルにした絵に、一昨年カッセルのドクメンタの豆腐工場跡地で見たドキュメンタリーを思い出した。キリスト教的世界観の歪み、ヨーロッパの閉塞感、湖面に張った薄い氷のような、狂気。自分から遠い場所にあるようで、実はすぐ隣にあるそれらの精神を表したタイマンスの絵画が現代絵画のひとつの頂点というのは興味深いことだと考える。

 ヴァポレットに乗って移動し、Future Generation Art Prize(~8/18まで)を見に行く。完全に道に迷ったと思わせるような路地の奥にひっそりと会場があった。2019年キエフのピンチューク・アートセンターで開催された展示の巡回展だが、野心的でエネルギッシュな世界の若手作家の作品は、VRやインスタレーションを用いた作品が建物内の装飾と一体化して、思いがけない面白さ。雨で客足がまばらななか、子連れで現れた私たちに警備員のおばさまたちは驚き、そして優しく、バギーを置いていけ、エレベーターを使えと言ってくれる。「ベリッシモ」と何度も子ども達に微笑みかけ、長女は恥ずかしくて舌を出す。最上階の荒木悠の作品を見終えると、インターンらしき係の女の子が、秘密よ、と雨上がりの屋上の扉を開けてくれた。高いビルのないこの街であまり見る機会のない、屋根の連なり。白い雨雲、教会の屋根、洗濯物、煙突。下から見るのとまた違う「生活」を垣間見て、嬉しくなる。そして困る。この街の人間性をどんどん好きになることは、来週には遠い日本に帰ることを切なくさせる。

 最後は大好きなペギー・グッゲンハイム美術館へ。ここもまた、大切な巡礼地のひとつ。今回は最も敬愛するアーティストの1人、ハンス・アルプの回顧展を開催中という幸運。なかなかまとめて見る機会のない、ウィットと遊び心とプリミティブな創造性に富んだ作品の数々が所狭しと並んでいる。アメリカで巨万の富を一代にして築き上げた祖父、マイヤー・グッゲンハイムの孫娘でありながらボヘミアンを好み、数奇な運命を辿った一族きっての変わり者は、パリでマン・レイやデュシャンと交流し、彼らの先駆性を認め、守り、世界有数の近代美術コレクションをつくり上げた。パリに暮らし、ニューヨークで、ロンドンで華麗な美術界との交流を経て最後にこの街を選んだ理由は「ヴェネツィアにはずっと憧れていたから」というシンプルなもの。意外なほど質素で品がある邸宅には、緑豊かな庭園があり、素晴らしいアート作品が点在している。庭にさりげなく置いてあるアニッシュ・カプーアの彫刻の向こう側には遠くゴシック寺院が見える。このイタリアで最も重要な近代美術館の、ドアひとつ分ほどの小さな門を潜るたびに参拝のような気分になり、世界的ミュージアムでありながら親しい友人の家を訪れたような、親密な気持ちになれるのだ。

 6歳の娘は1日に何度も乗るヴァポレットに夢中で、なるべく身を乗り出して沿岸の建物や航路を見つめている。私が初めてこの街を訪れたのは8歳のときで、濃厚なココアにめまいがしたり、夜道で運河に落ちそうになったり、迷い込んだ道の濡れた敷石が街灯を映してきらめいていたこと、ヴェネツィアン・マスクが死神を連想させて怖かったこと。その全てが本当に魔法の街のように映ったことをよく覚えている。きっと娘も今、同じような記憶を脳に焼き付けているんだろうと、その後ろ姿を見ながら思う。幼い少女のみならず、ペギー・グッゲンハイム、フランソワ・ピノー、世界の贅と創造性の頂点を目にしたであろう人々をも惹きつけるこの街の魔法とは何か。一訪問者である私にはその全貌は見えないけれど、橋を渡る度、路地を覗き込む度にその秘密が囁かれているような気がしてしまう。

 この街出身の友人で写真家のロレンツォは、「ヴェネツィアはただの観光地。亡霊にすがる、つまらない場所、そう思って街を離れた」と語った。十数年前にそう思って街を出たロレンツォだが、世界的な写真家になった近年、この街に拠点を戻したという。彼の写真がVino Veroというバールに飾られている。この店ではローカル向けに洗練されたチケッティとビオワインを出し、スプリッツァのような「観光客向けのドリンク」は置いていない。カウンターだけの小さな店内で、冷えたビアンコを求め、グラス片手に目の前の運河沿いの小さな橋桁に座るのが定番だ。この街は、いつか沈む。2年前のダミアン・ハーストの展示さながらに安藤忠雄建築も、アニッシュ・カプーアも、おびただしい数のワイングラスも、みんな海底に沈むのだろうか。そんなことを考える。

 夜が明けて、再びサンタ・ルチア駅へ戻る。ここは夢と現実のちょうど境目にあるような場所だ。駅の中には世界中から来る観光客がスーツケースを引きながらせわしなく往来し、チェーン店が軒を並べる。電光掲示板が行き先と時間を告げ、換金をすすめる看板がひしめく。しかし振り返るとそこには悠々と流れる灰色のカナル・グランデがあり、対岸に緑のネオクラシックな教会の丸い緑の屋根が見える。ゆらゆらと揺れるゴンドラやヴァポレットが、またここへおいでと誘っている。魔法が解けていくのを感じ、心が締め付けられる。夢はおしまい、さようなら、また2年後に。

深井佐和子

ライター/編集者/キュレーター

1981年東京生まれ。上智大学文学部卒業。現代写真ギャラリー、アートブックの出版社にて10年勤務した後独立。2014年から4年に渡るロンドン、アムステルダムでの生活を経て現在は東京を拠点にアートプロジェクト・マネジメントを行う他、翻訳、編集などを行う。
https://www.swtokyo.jp/