森田友和さんは二十歳前後に補助教員をしていた。戦後であるから、教師のための「講習会」があったという。つまりそれまでとは180度異なる民主主義教育のための指導があった。そのころ私の曾祖父は須崎市から出た政治家だった。森田さんの住んでいた土佐市の教員は須崎市の集会所に講習を受けに行っていた。そこで顔見知りになったのが最初という。
その後、曾祖父が森田さんに手紙を書いたのは、8年ほど後のことだ。1958年はブラジル移民50周年にあたり、当時田村幸重という日系二世で高知出身の父親を持つブラジルの連邦議員が来日していた。高知つながりということで曾祖父が東京での講演会の実施に動いたようだ。田村の講演に感動した曾祖父は森田さんに手紙を送った。
「あんな立派な人が出ていたとは、驚いた。議員連中もみんなびっくりしていたよ、と。これから高知に行くようだから、よろしく頼む、というような内容でした」
田村は同年の東京での取材の中で次のように述べている。
アメリカは日本が移民して九十年にもなり、邦人も四十万人いるが連邦議員は一人も出ていない。ブラジルは違う。人種的偏見も差別もない。五十年後には日系人が大統領におされるようになるのも夢ではない。ブラジルは世界のあらゆる民族を吸収して、新しい民族をつくり出していく国です。
(岩田美郎「ブラジルの活躍男田村幸重」『実業の世界 55』実業之世界社、1958年所収)
田村の父は高知時代は大工で、移民として移住後、サンパウロで田村が生まれたのちも、生活は豊かではなかった。文字通り裸一貫のところから大学に進学し、日系人でありながら議員になることができた田村は実感として、ブラジルが本来持つ懐の深さを感じたのだろう。
森田さんによれば、田村は「ブラジル人」を自認し、サンパウロ市創立400年祭の1954年のイベント実行委員会内でも、「公園に日本の金閣寺の模型を作ろう」と言う日系人たちと対立したという。教育の大切さを説き、積極的に公立小学校建設に携わったり、鉱石採掘で日本企業と連携したりもしたが、熱心なクリスチャンだったという。
その土地に骨を埋める覚悟でその国に根を張って生きる。水野と田村の姿勢はどこか重なって見える。水野が尊王主義者でありながら、その言葉が与えるイメージよりもずっとスケールの大きな感じを受けるのは、「狭い日本」を飛び出していくグローバルな視点を持ち続けたからだろうか。そうかといって「狭い日本にゃ住み飽きた」とアジア大陸を目指した人々は一方で軍隊と運命を共にしてしまった。中村茂生が指摘したように、水野がそうした運命とたもとを分かつことができたのが単なる偶然だったのか否かについては、研究が必要だろう。
そのことはさておき、一人の尊王主義者が、ブラジル移民の端緒を開き、やがて田村のような地球人ともいうべき、スケールの大きな日本人がブラジルに登場した経緯を眺めると、何か一つのマジックを見せられているような愉快な気分になる。
ブラジルのパラナに作られた土佐村については、広大な土地だったが、入植したのが水野に影響を受けたインテリが多かったので、農業がそれほど発展したというわけではなかったようだ。これを皮肉り外山は「水野の植民地造りは、いつまで経っても上手く行かない」(外山脩『百年の水流 改訂版』トッパン・プレス印刷出版、2012年)。と評した。
移民会社を興したその日から、晩年まで水野を常に駆り立てていたのは「日本人が海外で発展する」ための殖民事業を展開することだった。ただ、どうも器用なタイプでも、周到なタイプでもない。実際に初期の移民を大きな困難にさらし、悪評は続いた。しかしひたすら殖民事業へ邁進する一途で純粋な思いと、そのためのなりふり構わぬ行動力と精神力があった。クリチバへの永住覚悟の転居も、昔の悪評を知らぬ移民たちの中に水野信者を生んだ。そして結果的に、水野が開いたブラジル移民の道は、戦後まで25万人という膨大な数の日本人をひきつけた。
カフェ業界への功績という意味から言っても、西洋香る文化的な飲み物を格安で大正日本に広めたカフェーパウリスタはこれまで見てきた通り、水野という個性なくしては生まれえなかった。
夢の中でさらに夢を見ることを夢中夢と言うのだそうだ。一人の尊王主義者が見た殖民という夢があったすれば、その夢の中で水野が一瞬見た夢中夢がカフェーパウリスタだったのかもしれない。そして、それは単なる夢で終わらずに、多くの日本人が共有・継承して珈琲文化という確かな遺産となった。
そして、銀座8丁目の現在のパウリスタで、水野の夢の残り香を感じることができるのも、また夢のように素敵なことだと思うのだ。