高速バスから駅前ロータリーに吐き出され、朝の高知駅の喫茶店で一息ついて、市電で自由民権記念館を目指す。カフェーパウリスタの創業者であり、第1回ブラジル移民団を率いた水野龍を直接知る最後の証人、森田友和さんとの待ち合わせ場所だ。
少し遅れて待ち合わせの郷土情報室に現れた白髪の森田さんは、86歳という高齢を感じさせないはっきりとした記憶をお持ちで、特に一度話し出せば数珠つなぎのように連なり出てくる豊富な知識には、たじろいでしまうほどだった。
折よく自由民権記念館では「在伯同胞活動実況大写真帖 竹下増次郎、ブラジル日本移民を写す」という展示をやっており、これに森田さん提供の写真も多数展示されているという。
「これが私ですよ」
森田さんが指さした写真には、ひざたけのズボンに長袖シャツを着た少年の森田さんが写っている。7、8歳ぐらいに見える。「森田元治氏ノ農園ト家族 高知鼎高岡郡波介村出身」とタイトルがつけられたその写真には森田さんの他に6人の男性と2人の女性が写っている。女性の一人は赤ちゃんを抱いており、森田さんのお母さんだろう。森田さんは1930年生まれ。3歳のときブラジルに渡り、8年ほどしてから日本に戻っている。波介村は現在の土佐市を流れる波介川流域にあたり、ここからブラジルのコチアに移住した者が多かった。彼らは組合を作った。
「コチアは場所の名前だけど、高知の人がより集まって『ここは高知や』と言ってね、頑張ってコチア産業組合というのを作って南米第一の大きなものになった。日本の丸紅くらいの影響力になってね」
コチア産業組合は1927年、ブラジルの邦人社会の中で他に先駆けて誕生し、以後他の入植地でも産業組合が作られていったという。その後、ブラジルで排日法が成立して発生した非日系の仲買人との衝突などでも、組合の団結力が実を結んでいった(外山脩『百年の水流』トッパン・プレス印刷出版、2006年)。
1930年生まれの森田さんがブラジルに渡ったのは1933年。日系人が着実に成果を残していく一方で、その翌年には「移民二分制限条項を含むブラジル新憲法(通称・排日法)」が成立し、邦人社会には衝撃が走る。入国制限が設けられ、ブラジル移民も激減した。一家は到着して間もないうちにそのような状況となって不安を抱えた。随時情勢の推移に気を配ってきたのだろう。開戦の約1年前、1941年1月に森田さんと兄を先に日本に帰す決断をし、残りの家族も8月には帰国した。12月にいよいよ「大東亜戦争」が始まると、ブラジルはすぐに連合国側として参戦し、敵国となった。翌1942年1月に枢軸国との国交断絶が決定されると、日独伊の大使館、総領事館、領事館などは閉鎖され、領事館関係者や商社の社員、新聞記者などは早々に日本に引き揚げている。
残されたのは経済力のない移民たちだった。残留した日本人への迫害は日に日にひどくなり、スパイ容疑で逮捕されるものも続出した。外山は、日本語をこっそり教えたことで拘留され拷問死した教師についての話にも触れているが、日本人の多くが開戦の報に無邪気に喜んでいたころ、南米では悪夢が始まっていた。
「そのときはこのままでは勉強できなくなるというので、家族をおいて日本に帰ったの。兄が軍隊に入らなければならないというので、二人で馬場謙介という人に率いられて、子供たちは40人くらい来たのかな。もんてびでお丸というの。10人くらいはロスとかサンフランシスコからで。3月から学校に入るために、向こうを出るときはちょうどお正月だった。スイカを食って海水浴して。ブラジルは季節が逆だから」
開戦前とはいえ、すでに緊迫した空気が船上にも流れていた。途中アメリカの憲兵が乗船してきて、日本人移民の大人たちはみな手を挙げさせられてチェックを受けた。子供たちはチューインガムやチョコをもらってご機嫌だったが、大人たちの苦い表情を森田さんは覚えている。
残りの家族が森田さんたちの後を追って6月にブラジルを出た船に乗ったとき、これに82歳になった水野龍が乗船していた。水野は開戦の報を受ける以前からブラジルに大規模な「土佐村」を作ることを計画して、相変わらずブラジルと日本を行き来していた。
すでにカフェーパウリスタを支えた「補助珈琲」は1923年に打ち切られていた。加えて関東大震災があり、パウリスタは閉店する。大正時代と歩みを共にしたパウリスタは、一つの時代の終焉と共に、珈琲普及の役目を終えたのである。店がつぶれても水野の殖民の夢は果てない。焙煎事業としてのパウリスタ社を従弟に譲ると1924年、65歳で自らは家族とパラナ州クリチバに居を移した。日本の領土拡張につれて、政府内では、移民は台湾、朝鮮、満州という戦略的重要地域に送られるべきという小村寿太郎の主張が軍部の賛同を得て強まっていた。「兵役逃れや退廃的とされた西洋諸国への移民は『国賊』とみなされる空気が生まれていた」(遠藤十亜希『南米「棄民」政策の実像』岩波現代全書、2016年)中で、水野は変わらずブラジル一直線だった。
「水野さん一人で土佐の人の働くところを作ろうと土佐村建設のために来て、日本の拓務省から補助(金)を出すからやってくれと言われていたが、そのころはもう拓務省も満州、朝鮮、南洋になびいちゃって、お金は出せないという。それじゃ困ると言って、元拓務大臣をやってた人なんか動かして土佐村の計画を進めていた」
1941年、日本へ向かう水野と森田一家が同船したことが縁で、これ以降、森田少年は水野が高知で身を寄せた義姉の家に通い、不足しがちな食料を届けるようになる。
「しょっちゅう寄って、食べるものもないというので、田舎から米や芋をよく持って行きました。アメリカから来たバターで芋を食べた、そんな思い出があります。ブラジルの話をしに寄っていけと言われたり。お米を届けたりするうちにだんだん秘書みたいになって。子供だったからブラジル語も少しできたしね」
水野は1950年91歳で、ブラジルへ戻る。戦争末期から帰れない状態が続いていた。その最後の船に乗り込む姿も森田さんは見送った。翌年水野は望み通りブラジルの土となった。
「水野さんはどんな人でしたか」
「まあ、国士風のね。今は世話になっているが、お前が成人したら、おれが面倒みるからねなんて。面倒みてもらわずに終わっちゃった」
と森田さんは笑った。最後に聞きそびれていたことを聞かなければと思った。
「皇国殖民会社を興した水野は、移民を食い物にするのではない、まともな会社を作ろうとしたのですよね?」
森田さんの声にひときわ力が入った。
「その通りですよ、それこそ、あの人が目指したものです」
その声の強さに、自身の落ち度もあれど、水野が誤解を受けてきた長い年月を思った。
「ところで、寺尾という苗字は高知にもありますが……」
話の終盤、森田さんがそう切り出したので、私は須崎市出身の曾祖父の話をした。
「おお、その方なら私は丁重な手紙をもらったことがありますよ」
と言う。不思議な糸に手繰り寄せられるように森田さんの話を聞くと、曾祖父と森田さんをつなぐものも、やはりブラジル移民であったことが分かって不思議な気持ちになった。
(その4に続く)