神戸元町から歩くこと15分ほど、その建物にたどりつくと背の高い、幹の細い樹木にまばゆく黄色い見慣れぬ花がいくつも咲いていて、ふとそこだけ異国の香りがした。イペーというブラジルの花であることを後で知った。
1928年に設立された神戸の国立移民収容所は、現在、海外移住と文化の交流センター(現・神戸移住センター)となっている。主にブラジル行きの移民を送り出す玄関として機能してきた収容所の歴史を、展示を見て学ぶことができる場所になっている。長い船旅に早く適応できるよう、船内に限りなく似せて作られたこの移住センターに移民たちはしばらく暮らし、移住の準備を整えてから乗船した。
カフェーパウリスタを作った水野龍が第1回ブラジル移民団を率いたのは1908年なので、当然この収容所は存在していなかったが、古い写真の展示を見ていると船上生活の一端を垣間見ることができる。甲板の上でラジオ体操をする人々、眼病トラホームの治療を受ける人々、船上運動会のリレー風景、「赤道祭」と名付けられた船上の演芸大会、ポルトガル語を勉強する人々。水野が組織した移民たちも似たようなことで時間をつぶしながら、2ヵ月足らずの航海を過ごしたのだろうか。病院の相部屋のように8つのベッドが4つずつ向かいあって置かれた、やはり船内を模したらしい部屋を眺めながら、不思議な気持ちになる。
日本からブラジルへの移民は1908年から1989年まで太平洋戦争時期を除く70年以上にわたり、戦前におよそ19万人、戦後に7万人が渡航している。戦後も渡航者がそれだけいたということは、戦前の日系人たちがそれなりに成功し、暮らしやすい社会を作り上げていたということだろう。しかし、初回1908年の笠戸丸で渡航した移民団は辛酸をなめた。藤原義隆『移民の風土』(北添謄写堂、1975年)を読むと貴重な初回移民の声を知ることができる。
生活の苦しさは沖縄を出るときの比ではありませんでした。そうかといって500円も借金して日本を出ているのですから今さら帰ることもできません。まず、国を出る時に借りた借金をなんとしてもかえさねばなりません。みんなで話し合った結果、争議をおこすのはめんどうだから夜逃げしようということになり、方角もまったくわからないのに鉄道線路ぞいに歩いて、サントス港にまいもどり、港の労務者になりました。
(カナーン耕地の沖縄出身者)
金がなくて肉や野菜はめったに買えませんでした。おかずはせいぜい干魚や干肉です。炎天下の重労働で体は弱るし、借金はふえる一方で、ついに争議のすえ、サンパウロ移民収容所にまいもどり、ここから鉄道工夫になって行きました。
(ズモンド(デュモンド)耕地の熊本県出身者)
水野は移民会社「皇国殖民会社」を立ち上げて移民事業を始めるにあたって、準備をしなかったわけではない。ブラジルにも何度か渡り調査を重ねたうえで、外務省にその報告もしている(水野龍「海外移民事業ト私」『ブラジル移民の100年』国立国会図書館 ウェブサイト、2009年所収)。この土地でこれくらい稼げるはずという目途もたったからこそブラジル側とも契約を交わして事業に乗り出した。しかし、水野には大きな誤算が3つあった。神戸移住センターでお会いすることができた細江清司日伯協会(かつて日本ではブラジルを「伯剌西爾」と表記した)事務局長は指摘する。
1つは募集期間をじっくりとらないまま、焦って移民を募集したため、定員割れによって、結果的に出発もずれ込んでしまったこと。2つ目はそれにより、コーヒー収穫のかきいれどきを大きく逃して到着してしまったこと。3つ目は直前に国が会社に対して保証金の額を5倍につりあげたため、資金の不足を移民から回収したお金でまかなわざるを得ず、移民たちに水野が私腹をこやしたという疑惑を生んだこと。
笠戸丸が神戸港を出発したのは1908年4月28日。しかし、ようやく募集開始をしたのは2月25日だった。加えて家族移民に限定していたため、1000名の募集は難航。結局781名どまりで似非家族や偽装結婚も目立った。残る219名の不足分も運賃は皇国殖民会社が負担せねばならず、サンパウロ州政府の補助はあったにせよこれも後払いだったため、会社の資金難に拍車をかけた。
そして、6月18日にようやくサントスに到着したものの、収穫開始時期には大きく遅れてしまっていて、移民たちが収入にできるコーヒーの実は十分に残されていなかった。資金難の移民会社に、移民から集めた金をすぐに返せるわけもなく、移民たちはたちまち困窮し、ここに水野に対する「悪徳移民屋」という評価が下されることになる。
上記以外にも出発が遅れた笠戸丸の滞船料や、逃亡した移民分の渡航費はサンパウロ州政府から補助が下りなかったこともあり、水野の皇国殖民会社は初年からぼろぼろの経営状況となった。その上、多くの移民の人生を巻き込み、大きく暗転させてしまったわけである。水野の評価はがた落ちだ。普通の経営者であれば、もう移民事業はこりごり、と感じて手を引いてもおかしくない。「皇国殖民会社」は「皇国殖民合資会社」となっていたが、これも第1回移民団が渡った1908年年末には破綻している。実際、これほどの混乱を引き起こした会社に対して国は、次回以降の移民事業を許可しなかった。
しかし水野はここであきらめなかった。郷里・高知の富豪竹村与右衛門を説得し、竹村が有していた企業・竹村殖民商館として会社を作らせ、事業を継続したのだ。しかしこの後も事業はなかなか軌道にのらず、サンパウロ州政府が渡航費補助を打ち切り、竹村殖民商館もやがて手を引く。それでもなお大阪商船や日本郵船、東洋拓殖ら株主の支援を受けて1917年に海外興行株式会社を立ち上げ、事業を次第に軌道にのせていったのだ。水野をここまで移民事業にこだわらせた情熱は何だったのだろう。
ブラジル日本人移民研究者の中村茂生は、水野が尊王主義者だったことを指摘し、それが「どのようにブラジル移殖民に結びつくのか、また興味をひかれるのは、それが同時代に見られたアジアでの植民地拡大や支配のイデオロギーと通底するものであったのか」という問題を提示している。この問いに明確な答えを出すことはできないが、資源確保や領土拡大の思惑を下敷きにした国の「植民地」と、水野が志向した「殖民」がイコールでなかったことは押さえておくべきだろう。
水野は、日本国内の食糧難、それから日清戦争後の復員兵帰還などによる日本の国内状況の悪化を懸念して移民の必要性を感じていた(水野龍『南米渡航案内』京華堂書店、1906年)。会社名に「皇国」こそついてはいるが、水野が目指したのは、まず移民たちが報われ、その結果「国家国民ノ繁栄」がもたらされる社会だった。もちろん尊王主義者である水野は、移民たちに「大和民族の海外発展の意義日本帝国国威の四海に及ぶべき時代への先駆者としての使命を説いた」(水野龍「海外移民事業ト私」より)が、水野の移民事業に携わるきっかけ自体はそうした「先覚者」たちが大事にされていない実情であり、それに対する怒りだった。そしていわば自らが率先して移民事業の実務にかかわったことで、皇国主義者ながら、あまり精神論めいた主張が見られないことも興味深い。
前出の『移民の風土』を記した藤原義隆の一家は、南米やアメリカへの移民にはあこがれても、日本軍の大陸進出を背景に満州や朝鮮に移住していく大きな流れには与さなかった。藤原の母は当時「四億の人々がいつまでもだまっているはずがない。必ず中国大陸への移住は失敗する」と語ったという(藤原義隆『移民の風土』より)。戦後日本は引揚者で溢れ、国内の開墾も進められたが、再び貧困と人口過剰状態となった戦後の日本から、ブラジルへ渡った移民たちの中には、藤原家のような意識を持つ人々も少なからずいたのかもしれない。ブラジル移住を考えた人々の中に、国家の軍事的な膨張主義とは距離を置く人々がいたことにも、注目すべきだろう。
水野率いる初の移民団がブラジルへ渡ってから3年後、1911年6月に大阪・箕面に誕生したカフェーパウリスタ1号店に続いて、12月に銀座店が開業する。竹川町(現・銀座7丁目周辺)の亀屋鶴五郎商店の一角での経営から、近所の南鍋町(現・銀座5丁目周辺)の空家を改装しての正式なスタートだった。横浜の西川楽器店から仕入れた蓄音機、鏡張りの店内、夜は電飾が灯る文化の香る白亜の喫茶店だった。第1回移民事業でぼろぼろになったはずの水野が、たった数年でこうしたカフェを全国に展開していけたのはどういうことだろうか。
背景にはサンパウロ州政府が、水野の惨状を見かねて提供した無償の珈琲の存在があった。提供されたコーヒーは12年間で864トン、年間およそ72トンに及んだ。しかし、これは単なる温情ではなく、サンパウロ州政府の戦略の一環だった。全国17店舗のコーヒー店の展開とコーヒーの普及が義務として課され、最終的にはアジアへのコーヒー豆供給所となることが期待されていた(1911年5月15日朝日新聞朝刊)。しかし水野が意気消沈していたら、任されなかった話だろう。水野はもちろん喜んでこの仕事に取り組んだ。日本人に全く馴染みのないコーヒーの輸入に農商務省からは当初輸入許可が下りなかったが、窮地を救ったのは水野が頼った大隈重信だった。
君がブラジルのコーヒー園に移民を送り込んだ功績を認めてブラジル政府が特権として君に寄越すブラジルのコーヒーというのは、いわば日本移民の汗と努力の結晶としてまことに意義深いものではないか
移民たちに大きな迷惑をかけた水野が、せめて日本で彼らの労を伝え、コーヒーを普及し、間接的に移民の発展を支える事業に関われることになってどれほど、安堵し奮起したことだろう。大隈の言葉を通して水野の生き生きとコーヒー移民について訴えるさまが見えてくるような気がする。この「補助珈琲」によって、格安5銭のコーヒーが世に生まれ、多くの日本人を魅了した。いわば、水野の失態と情熱とブラジルの思惑から誕生したのがカフェーパウリスタだった。しかし国内での華やかな事業展開の陰で、詳細を知らぬブラジル初期移民たちは水野を恨んだ。どれくらい長いこと水野の悪評は語り継がれたのかとの問いに日伯協会の細江さんは答えてくれた。
「2008年の移民の百年祭までですよ。あの時に、森田さんが日本ブラジル双方の新聞などで水野の実際と功績を訴えたんです」
水野の功績を訴えた森田さんとは森田友和さんのことだ。水野と関わりのあった最後の生き証人は、86歳と高齢ながら高知で存命だった。今すぐに会わなければならない。高知行きのチケットをその晩予約した。
森田さんと私の間に水野以外の不思議な縁が絡んでいることを、この時の私はまだ知るよしもなかった。
(その3に続く)