心の底に沈んで、長い時間をかけて私の人格をつくっている物語がいくつかある。
それらは人生の思いがけない瞬間に浮かび上がってきて、時に私を慰め、ある時には奮い立たせる。子供の時分のおそれや、不安、せつなさが読書によってやわらいだり、実際の体験と相まってさらに豊かな心象風景になることは少なくない。
私は飛騨の高山という、北アルプスの山々にかこまれた町で高校時代までを過ごした。あたりには人がいくら手をかけようともそれを凌駕する自然があった。たいていの無邪気な子供がそうであるように、どんな嵐や吹雪も私は恐ろしいと思ったことがなかった。それらはむしろ心踊る現象で、喜びとして身近なものに感じていた。晴れの日に山に出ることよりも、天気の悪い日に川べりの水草を見たり、岩山に叩きつけられる木の枝を眺めることが好きだった。普段はおとなしい植物が生気を取り戻した人のように踊り出し、見慣れているはずの山は複雑怪奇だった。
そんな嵐の日にもう一つ好きだったのが、夜半布団に入って幻想小説を読むことだった。中でも泉鏡花は私の一等のお気に入りで、繰り返し読んだ話がいくつもある。今思えば、鏡花の異常なまでの細部への執着は私のものの見方の原点になっているかもしれない。
主人公の独語で構成される『化鳥』は、母と橋のたもとで暮らす貧しい少年の話である。文中少年が、人間と動物、植物の区別なく素直に触れ合う様子が印象的だ。普段接している自然と、人間世界にある権威とを比べて、自分が正しいと思うことが正しい、自分の世界ではどんなことも真実になりうることを教えてくれる。その中に少年を大きく見守る母親の存在があり、二人の対話は微笑ましく、時に大人もたじろぐような鋭い観察眼を持った少年の言葉も、母の俗世を超越した優しさの中に包まれ、読む側も安心を覚える。自然に対する好奇心がすぎるあまり、人間以外のものと会話できると思っていた幼い私は、この物語に承認を得た気がしてとても嬉しかったことを覚えている。
私が頷(うなず)かないので、先生がまた、それでは、皆(みんな)あなたの思ってる通りにしておきましょう。けれども木だの、草だのよりも、人間が立ち優(まさ)った、立派なものであるということは、いかな、あなたにでも分りましょう、(中略)
分らない、私そうは思わなかった。
「あのウ母様(おっかさん)(だって、先生、先生より花の方がうつくしゅうございます)ッてそう謂(い)つたの。僕、ほんとうにそう思ったの、お庭にね、ちょうど菊の花の咲いてるのが見えたから。」(中略)
「母様、それで怒ったの、そうなの。」(中略)
「おお、そんなことを坊や、お前いいましたか。そりゃお道理だ。」
といって笑顔をなすったが、これは私の悪戯(いたずら)をして、母様のおっしゃること肯(き)かない時、ちっとも叱らないで、恐い顔しないで、莞爾(にっこり)笑ってお見せの、それとかわらなかった。
誰しも自分にしかない体験と物語があり、時にそれは誰にも言わないほうがいいのだということもこの話は教えてくれる。真実が揺らぎそうな時も、自分の中に立ち返ると何が本当のことかわかるものだ。