「こんちわー、隠居さんいますかぁ!?」
「おや? 誰かと思ったら八っつぁんかい? まぁまぁ、お上がりよ」
「ご馳走様です」
「なんだ? 『ご馳走様』てぇのは?」
「『まんま、お上がり』っつったから」
「『まんま』じゃない。『まぁまぁ、お上がり』だよ」
「なーんだ、面白くねぇ……」
「ひどい言い草だね。なんか用かい?……」
これは古典落語『道灌』の冒頭。横丁の隠居と職人の八五郎の会話だ。
『道灌』はご隠居さんの家で「七重八重、花は咲けども山吹の、みのひとつだになきぞ悲しき」という掛軸をみた八五郎が、雨具を貸すのを断る際にこの歌を真似して失敗する……というストーリー。
入門したての噺家が覚える、基本中の基本の前座噺。……であるが、正直つまらない。登場人物が少なく、筋の起伏もなく、ギャグも古臭い。だからウケない。お涙頂戴の人情噺のほうがはるかにやさしい……と思う(異論もあるかな)。
『道灌』でウケている噺家は腕がよいと思って間違いない。こんなに難しい噺はないのだ。
じゃぁ、なんでこの噺を入りたてのペーペーに教えるのだろう。『道灌』には二つの基本がつまっていると思う。
一つは落語家の技術に必要な上下(カミシモ)の切り替え・長屋の距離感などの技術の基本。これを身につけるにはうってつけだ。
もう一つは「落語ってこんなノンキな世界なんだぜ」という考え方の基本。暇な年寄りの家にアポイントもなく、これまた暇な職人がふらりと立ち寄り軽口をたたく。「お茶を入れようか」「ありがとうござんす……」と上がり込む。現代において、ほとんどなくなってしまったであろう「長屋の付き合い」の中にある“落語世界のノンキ感”を肌でおぼえろ、ということじゃないかな。
だから、頭でっかちになって落語を難しく考えてしまった時、私はこの『道灌』を高座にかけるようにしている。すると再び、落語を好きになった時の自分に返ることが出来るのだ。
ただウケないけどね。付き合ってもらうお客様には申し訳ないが。もし私が『道灌』をやっていたら「リフレッシュの、リボーンの最中だ」と思ってほしい。
そして、もう戻れないかもしれないけど、現実社会が少しでも『道灌』的なノンキさをとり戻して欲しいもんだ……とも思うのだ。