ブロードウエイで演劇を観るのが好き。
英語なので会話の細部まで理解できず受け取るものがないような気がするが、言葉がわからないからこそ役者という生身の人間のエネルギーから息遣い、震え、伝わってくるものがある。観劇後の疲労感、呆然と心動かされ涙する。それは生のコミュニケーションから生まれるもの。
私が演劇と関わっていて魅力を感じるのは文字でしかなかった物語が人間の体を通して立体的に立ち上がってくるところにある。それは何通りにでも膨らむ物語のひとつの提示に過ぎない。その物語と関わる人々、自分の年齢、心の状況や色んな要素によって変化することも面白い。それは観る側も同じでいつ誰とどこで観たかで物語の印象は変わる。演劇の中でも、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』は傑作だと思う。本、映画、演劇、それぞれ印象が違う。落ちぶれた名家出身のブランチがニューオーリンズのフレンチクオーターに住む妹ステラとその夫スタンリーの家に居候をしたことから、隠していた過去が暴かれ、破滅するまでの物語。会話はもちろんだが、その間の間が好きだ。脚本のト書きの部分。それを役者がどう演じているかにドキドキする。
例えば、ステラががたついた階段をそっと下りてくる。目は涙で光り髪はほどけて喉や肩にまとわりついている。二人は見つめ合う。やがて低い動物のようなうめき声をあげて二人は駆け寄る。夫スタンリーが酔って家の中で暴れてステラが2階の友の家へ避難した後のト書き部分。私が一度ステラを演じた時は、階段を下りる歩き方、速度はすごくゆっくりかもしれない、けれど心の中はスタンリーに抱きしめて欲しくてウズウズしているかもしれない、ということを意識した記憶がある。
テネシー・ウィリアムズの戯曲のすごいところは感情の起伏を自分で作らなくとも本の中にちゃんと流れているところ。心地よい。ト書きの部分の揺れ動く時間は生身の人間からしか得られないし、そう信じたい。それには日々の経験を自分に落とし込んで肉体を使って世の中と交流することが大切なような気がしている。