「四十にして惑わず」と言いますが、もし、惑った場合はどうすればいいのか。四十一になる私は、ふと考えます。 理性にはたらけば未練が残る。感情に流されれば破滅する。人生何が待っているかはわからない。そう考えて思い出したのが、夏目漱石の『草枕』。文中の短い対話に、第三の道が透けて見えました。
『草枕』が発表されたのは1906年。旅する画工が、山中の温泉で、独り身の美しい女性、那美と出会います。那美は「自分の画を描いてほしい」と頼みますが、画工は「足りないところがある」と描きません。ある日、「野武士」のような元夫が、那美に無心をします。画工はそれを目撃。しばらくして、満州に徴集された那美の従兄弟を見送るため駅に行くと、元夫も同じ汽車に。彼もまた満州に徴集されたのでした。発車の際、一瞬、見つめ合う那美と元夫。画工は、那美の表情に「憐れ」を感じ取り、それなら描けると言い放ちます。
『草枕』はこのようなあらすじですが、画工と那美が「小説」について以下のような対話をする場面があります。
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」(中略)
「今でも若いつもりですよ。可哀想に」(中略)
「そんな事が男の前でいえれば、もう年寄のうちですよ」(中略)
「そういうあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
画工と那美は、最後まで抱き合ったりすることはありません。しかし、抱き合ったりするよりも、淡々と言葉を交わすことが、より官能的だと思うのは私だけでしょうか。漱石の後輩にあたる九鬼周造は、「いき」の構成要素の一つとして「媚態」をあげましたが、それを「異性への距離をできる限り接近させつつも交わらない甘美」とするなら、このような対話こそ「媚態」であります。
画工の場合は、対話に止まらず、那美を凝視して、線をなぞろうとするから、さらに欲深いです。憐れさあって、美しさ深まるということでしょうか。漱石が『草枕』を発表したのも、数え年四十のときでした。